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拾ったもの【せりふ三題噺 / 花粉サワラ堤防】

    財布野紐ゆるみ

    堤防の上は、人で埋まっていた。

    桜並木の下、ブルーシートが途切れなく続いて、笑い声とアルミ缶の音が混ざり合っている。

    本当は、桜の花を静かな気持ちで見たかった。あいにく、賑やかな場所も酔っ払いの匂いも好きじゃない。

    授業が早く終わったその日の午後は、日差しがやけにゆるかった。クラスの誰かがはじめた、黒板のカウントダウンを思い出す。卒業までの残りの日数なんて、私にはどうだってよかった。

    少し離れただけなのに、斜面の菜の花のほうには誰もいない。

    黄色は風に揺れて、花粉がかすかに舞う。目の奥がむずむずするのは、そのせいだけじゃなかったかもしれないけど。

    坂を降りると、靴の裏で乾いた土がこすれて音がする。下の方まで来ると、笑い声や匂いは遠くになった。

    そこで、ひとりの男子に気づいた。

    同じ学年……だと思う。顔はなんとなく見覚えがある。でも、話したことはない。近づいても、こちらには気づきもしないで、何やら作業を続けていた。

    彼は、ブレザーの袖を少し捲って、ごみ袋を片手に、しゃがみこんでいる。

    空き缶を拾って、軽く振って、中身を確かめてから袋に入れる。そんな動作を、淡々と繰り返していた。

    どうして? と思うより先に、声が出た。

    「……何してるの。」

    彼はぎょっとして一瞬だけこちらを見たあと、すぐに視線を戻した。

    「見ればわかるだろ。」

    言いながら、足元のコンビニの容器をつまみ上げる。透明なフタの内側に、焼き魚の皮が張り付いていた。春が旬の魚。サワラだったか、タラだったか。名前は思い出せない。

    「お花見のごみ? ポイ捨て、ひどいね。」
    「まあ……それもあるけど。」

    彼は、少しだけ言葉を探すように間を置いた。

    「写真、撮ろうと思って。」

    そう言って、顎で上を示す。桜の列。それから、手前の菜の花。

    「一緒に入れたら、きれいそうだったから。」

    確かに、と思う。

    黄色と淡いピンク。その間に、誰もいない斜面。桜の方にばかり人はいくけど、見事な菜の花の黄色も壮観だった。

    「でもさ。こういうの、入るのが気になって。」

    彼は足元の空き缶を、靴の先で軽くつついた。

    「見なかったことにして。撮ることもできるけどさ。」

    袋の口を広げて、まとめて押し込む。風が吹いて、菜の花が波をうって揺れる。その向こうで、桜の花びらがひとひら、遅れて落ちてきた。

    「……気になるんだ?」

    私が、彼の後を引き受けるように言った。見れば、延々と続く斜面の下側。菜の花の並びに沿って、ぽつりぽつりとごみが落ちているのが見えた。

    「袋、まだある? 私、向こうの方から拾ってくるよ。」

    意外そうに彼がこっちを向く。思いがけず出た言葉に私自身、驚いていたくらいだ。彼は私の服装をまじまじと見つめ、言った。

    「きみも制服じゃん。汚れるかもよ。」
    「いいよ別に。私も、きれいな菜の花と桜が見たい。」

    それだけ言って、私は一枚だけ袋を持って奥の方へ向かい、ごみ拾いをはじめた。

    風でごみ袋が膨らむことがあるのが厄介だったが、私は奥から、彼は手前から、それぞれじりじりと距離をつめていった。

    ふたりでやると、きれいにするのは三十分もかからなかった。

    * * *

    「ありがとう。」

    私の方で拾ったごみの袋の口を縛って置くと、彼は目を合わさずにそう言った。

    遠くで、相変わらず誰かが笑っている。風に乗って、甘い匂いが流れてきた。ベビーカステラか、たい焼きの屋台でもあるのかもしれない。

    「そういえば、屋台のとこあたりに大きなごみ箱、設置されてたよ。」
    「知ってる。戻るときに通るから、あとでそこに捨てるわ。」

    そのやりとりのあと、少しだけ沈黙が落ちた。

    彼が立ち上がる。

    「あんま、言わないでくれな。俺がごみ拾ってたこと。」

    難しそうな顔をして、こちらを向いて言った。

    「どうして?」
    「なんというか、嫌なんだよ。」

    わからなかった。悪いことをしているわけでもないのに。

    「うん。わかったよ。」

    そう言うと、彼はほっとしたように、袋の口を縛る作業に戻った。そのとき、彼の制服の袖が引っかかった。

    口を勢いよく締めた拍子に、ぶつっと小さな音がする。遅れて何かが地面に落ちた。ころん、と転がったそれは、黒いボタンだった。彼は一瞬それを見て、それから苦笑した。

    「あー……まじか。」

    拾い上げて、指先で軽くつまむ。ブレザーの袖口を見ると、ひとつだけ、ぽっかりと空いていた。

    「取れた?」
    「みたい。」

    ボタンを裏返して、糸の切れた跡を眺める。

    「ま、いいか。」

    あっさり言って、ごみ袋の口を開こうとする。

    「もうすぐ卒業だし。捨てちまお。」

    そのまま、放り込もうとする。

    「あ。」

    思わず声が出た。彼の手が止まる。

    「待って。」
    「え?」

    一瞬だけ、彼がきょとんとした顔をする。

    「持っとこうか。」

    私は一歩だけ近づいた。

    ボタンは、素材だ。ハンカチに縫い付けてワンポイントにしたり、糸を通してチャームにしたり。リメイクやハンドメイドに使えるから。

    「もらってよければ、だけど。」

    少しだけ、間を置く。彼は、ボタンと私の顔を交互に見た。

    「……これ?」
    「そう。」

    風がまた吹いて、花粉が舞う。また目の奥が、じんわりとする。彼はしばらく黙ってから、不思議そうに肩をすくめた。

    「別にいいけど。ほんっとに、ただのボタンだぞ。」

    そう言って差し出す。受け取ると、少しだけ冷たい。小さくて軽くて、どこにでもあるはずのもの。

    「ありがと。」

    受け取ったボタンを、上着のポケットに滑り込ませる。布越しに、丸い感触が残った。

    彼は少しだけ周りを見てから、斜面の草の上に置いてあった黒いケースに手を伸ばした。さっきまで気づかなかったけど、足元から少し離れたところに、置かれていたらしい。

    ファスナーを開けると、彼は中から一眼レフを取り出す。

    「それ……カメラ?」

    思わず声が漏れる。

    「ん。」

    短く頷いて、ストラップを首にかける。

    「親父のな。」

    それだけ言って、すぐに視線を落として手を止めた。見ていたのは、さっきまでゴミを拾っていた指先だ。

    ポケットからハンカチを取り出して、指の間まで、丁寧に拭く。それから、レンズの縁をそっと撫でるようにして、汚れがないか確かめた。

    お菓子を食べた手でゲーム機のコントローラーを触る、うちの兄のことを思い出して、なんとなく気恥ずかしくなった。

    ようやく彼は、カメラを持ち上げる。

    その一連の動きが、やけに静かで、無駄がなくて。さっきまで、空き缶を拾っていた人と同じだと思えなかった。

    「……じゃ、ちょっとだけ。」

    彼はそう言って、斜面の少し下に立つ。菜の花の高さと、桜の位置とを見比べて、数歩だけ横に移動する。広がる視界に、人の姿はない。

    しゃがんで、立って、また少しずれてを繰り返す。ファインダーを覗き込む。片目だけを閉じて、じっと動かない。

    私だったら、「きれいだな」でスマホで一枚撮って、おしまいだ。彼には、何が見えているのだろう。

    シャッターにはまだ触れない。私は、何となくその場に残った。

    風の音が聞こえて、黄色が揺れる。呼吸を合わせるみたいに、待ち構えている。

    その横顔が、視界に入った。さっきまでの、少し困ったような表情じゃない。何かを選び取るみたいに、静かに集中している顔。

    そのとき、また風が吹いた。今度は、少し強めに。

    彼の袖が、わずかにめくれた。ボタンのない袖口。ぽっかりと、小さく不揃いになっている。

    ──さっきまで、そこにあったもの。

    同時に、桜色がいくつか、はらはらと風に乗って景色の中に散った。

    私の胸の奥が、少しだけ鳴る。

    彼は気づかないまま。カシャ、と小さく乾いた音を鳴らした。スマホの軽い音とは違う、少しだけ重みのある響きだった。

    音が、もうひとつ。

    今度は、見ていた横顔で、ほんのわずかに口元が緩んだ気がした。それに、なぜか目が離せなくなる。ポケットの中で、ボタンを確かめる。さっきよりも、少しだけ硬く、重く感じた。

    ──ただの、ボタンのはずなのに。

    彼はファインダーから目を離して、画面を軽く確認する。

    「……まあ、こんなもんか。」

    小さく息を吐く。

    満足したのか、していないのか、よくわからない声だった。それでも、どこかすっきりした顔で立ち上がる。

    その拍子に、また彼の袖が揺れる。空いたままのそこに、視線が吸い寄せられて、ふいに、思い出した。

    聞いたことがあった。違う中学に行った、同級生から。

    詰襟の制服の、第二ボタンの話。心臓にいちばん近い場所にあるものを、好きな人に渡すんだって。卒業の日に。

    理由なんて、よく知らないけど。私は「うちの高校はブレザーだから関係ないね」なんて笑って流していたけど。なぜか、胸の奥に残っていた。

    ──いちばん近い、場所。

    無意識に、彼の胸元を見る。ネクタイが、風に少し揺れている。それから、視線はもう一度、袖口へ。

    さっきまで、そこにあった。今は、私のポケットの中にある。急に、指先が落ち着かなくなる。意味なんて、なかったはずなのに。

    顔が、少しだけ熱い。

    風のせいか、花粉のせいか、よくわからない。私は、何でもないふりをして、視線を逸らした。彼はそんなこと、少しも知らないまま、「帰るわ」とだけ言った。

    私はなぜか、焦ってポケットから手を出した。布越しの丸みを、そこに残したまま。彼は何も言わずに、ごみ袋をふたつ、つかんで持ち上げた。そのあとで、堤防の上を指さす。

    「自転車、あっちの駐輪場に置いてるから。」
    「うん……。」

    私も立ち上がる。並んで歩くわけでもなく、少し距離をあけて、坂を上る。桜のほうは、さっきと同じように賑やかだった。でも、その手前で、彼は足を止めた。

    「じゃ、行くけど。」

    そう言って、少しだけ笑う。

    「内緒だからな。」

    その一言に、ぐっと心臓をつかまれる。私の心に、彼の指の跡がついたみたいに。やさしくなぞられたような感触が残った。

    ──内緒なのは、どれのことだろう。

    私が言葉を返すよりも先に、彼は手をひらひらさせて、去っていった。そのまま、見えなくなる。

    しばらくその場に立って、ポケットに手を入れた。何度目だろう。指先で、ボタンの形をなぞる。少しだけざらついた縁。

    そのまま、私はゆっくりと駐輪場とは反対のほうへ歩いた。ここからは、菜の花の斜面は、もう見えない。たい焼きの甘い匂いだけが、風に乗って流れてくる。

    ──さっきの写真、見てみたかったな……。

    言えなかった言葉が、少しだけ引っかかる。黒板の数字が、ふと浮かんだ。

    卒業まで、あと少し。



    ※以下の企画に参加させていただきました。

    ※以下の企画にも参加させていただきました。(任意締切後投稿)

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