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ぬるま湯のうちに【創作】

    財布野紐ゆるみ

    デスクの上のカルテに目を落としながら、私はため息をついた。

    待合室は白く整えられ、明るい照明に照らされている。清潔な、歯科医院の様相だ。訪れる患者さんの笑顔も多い。

    けれど、長く身を置くと、その白さが少しずつ熱を帯びてくるように感じる。最初は気にならない程度の温度差だ。「こんなものだ」と思っているうちに、違和感は日常になっていく。

    私がこの大熊歯科医院で働き始めてから、もう数年が経っていた。

    患者と向き合うのは好きだし、手先の仕事もやりがいがある。それなのに、どうしても心がざわつく瞬間がある──。

    それは、ほんの些細なこと。

    スタッフ間の微妙な空気。たまに来るクレーム。そして施術後の「心配ないでしょう」という、院長の患者への言葉。

    笑顔で仕事は回っているけれど、私の中の空気の底に、いつも張りつめたものがあった。

    * * *

    その出来事が表に出たのは、ある朝だった。とある口コミサイトにて、大熊歯科医院に対し、ひとりの患者からの強い指摘が書き込まれていた。

    「初診での見落とし」
    「最初の予約での不手際」
    「結果的に抜歯に至った経緯」

    ──痛みや不安の経過が、淡々と。しかし、具体的に書かれている。

    私は息をのみ、画面を見つめた。数か月前、この患者からの電話を最初に受けたのは私だった。その日は、受付担当の歯科助手がたまたま席を外しており、手が空いていた私が受話器を取ったのだ。

    電話の相手は、定期的に口内のメンテナンスに当医院へ通っていた男性患者だった。

    「実は先週、固いものを噛んだ時に、歯が割れてしまったような感覚があって。」

    よく覚えている。割れる数日前から強い痛みがあったこと、違和感が続いていること。私は聞き取りした内容を、担当の歯科衛生士に伝えた。彼女の名前は、山口典子。

    「割れた感じがあるそうです。強く痛むって。」

    山口はカルテを見ながら、「確認します」と言っていた──気がする。
    少なくとも、無視されたという印象はなかった。

    だから、その先は、当日の診察で口腔内を確認したうえで判断されるものだと思っていた。

    だが口コミには、こう書かれていた。

    ──電話で症状を伝えていたにもかかわらず、当日は定型のクリーニングのみ。
    ──最後に診た医師も、割れを確認せず「問題ない」と痛み止めのみを処方。
    ──後日、別の歯科医院で歯根破折が判明し、抜歯に至った。早期の措置があれば、残せる可能性もあったと説明された。
    ──歯が割れた原因と考えられる、食いしばりや噛み合わせについても、長年通っていた大熊歯科では一切指摘されなかった。

    私は画面から目を離し、無意識にカルテを握りしめていた。

    電話内容の情報伝達は、確かに口頭だけだった。そこに私の落ち度がなかったと言い切れるだろうか。

    私の手のひらは冷たく、青ざめていた。

    * * *

    その日の午後。私は大熊院長から呼び出された。

    「この件だが……まずは君から、患者の親御さんに電話を入れてほしい。」

    声の端に、やや押し付けるような調子が混ざる。

    「え……親御さんに、ですか?」

    「この患者の父親も、昔からうちに通っている。『誤解があって、こう書かれている』と説明して、口コミを消してもらえないか頼んでくれ。」

    「し、しかし。こちらにも落ち度があった可能性が……」

    「証拠はない。」

    院長は短く言った。

    「仮に裁判になっても、負けることはない。波風は立てたくないだけだ。」

    それだけ言うと、院長は事務室を出ていった。

    相手の話を聞く姿勢すらない。こういう態度が、情報が止まり、判断が鈍る原因になるとは、考えもしないのだろうか。

    伝え損ねた山口典子は、普段から院長とは「距離が近い」と噂があった。それにしてもなぜ私だけが、この緊張と責任感を背負わなければならないのか。

    私は唇をきゅっと結び、受話子機に手を伸ばした。震えは、止まらなかった。

    患者の父親は、地元では少し名の知れた人物だったらしい。電話口での口調は終始穏やかで、こちらの説明を遮ることもなかった。電話前に構えていた覚悟が、風船のようにしぼんでいく感覚。

    私は事実関係を伝え、口コミについて共有し、「ご迷惑をおかけしていること」についてのみ謝罪した。医院としても、これ以上事を荒立てたくないのでと言葉を結び、あとは院長に対応を委ねることにした。

    通話を終えたあと、言いようのない重さが胸の奥に残った。

    後日、院長からは「あの件は対応完了した」とだけ口頭で伝えられた。何をどう対処したのかは、知らされなかった。

    * * *

    それを見つけたのは、予約用の院内PCのメールフォルダを整理しているときのことだった。

    DMや迷惑メールを処分していると、ごみ箱フォルダに、患者からのメールが入っているのを見つけた。間違って削除してしまったものだろうか、と開いて確認する。

    はっとした。

    それは、例の患者と院長とのメール履歴だった。日付は、私が親御さんに電話をかけた直後のものになっている。

    急なことで、心の準備が足りず動揺する。そこには、読んでいて心臓が痛くなるような、患者の怒りと無念が文字に刻まれていた。

    「証拠がないから、仕方なく口コミを消しました」という文章で終わっている。

    だが最後のそのメールについて、院長は未開封のまま、ごみ箱フォルダに入れていたことが見て取れた。

    私の胸に、虚しさが重くのしかかる。

    私はふと、スマホでそのメールのやりとりを写真におさめた。機械作業的に、無心で。

    でも、こうしなければいけないような気がした。

    * * *

    そして日常は、少しずつ元通りに動いてゆく。

    別の患者が、診察台に座っていた。大熊院長から、保険適用外の高額治療を勧められている男性だった。

    説明を聞く横で、私は一瞬だけ迷った。

    ──もし、ここを辞めたら、患者を置いていくことにならないだろうか。何も言わずに去るのは、逃げではないのか。

    患者は、常に暗闇の中にいる。私たちの技術を信頼し、委ねてくれている。彼らに対して目隠しの向こうから、じわじわと逆らえない支配を押し付けるのは、違う。

    私は、ぽつりと患者の耳元で口にした。

    「セカンドオピニオンを、考えてみてもいいかもしれませんよ。」

    男性は少し驚いた顔をして、それから黙って小さく頷いた。

    ──口コミに書かれるかもしれない。そんな考えが頭をよぎったのは、一瞬だった。

    この日の待合室にも、いつもと同じように見える白が広がっていた。窓の外では、冬の光が街を淡く照らしている。

    ゆでガエルのように、気づかぬうちに煮詰められて、摩耗していく前に。
    私は、この場所を去ろうと決めた。この選択で何が守れるのか。その答えは、あとから見つければいいと思った。

    診療室から続くバキュームの低い作動音が、少し遠くなる。

    まだ冷たい空気の中で、胸の奥がわずかに軽くなるのを感じながら。私は心の中で、静かに次の一歩を踏み出していた。


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