メインコンテンツへスキップ
見出し画像

混ざらない作品【創作】

    財布野紐ゆるみ

    図書館の奥に、寄贈図書だけを集めた部屋があった。利用者は自由に入れるが、そこに向かう人を、私はほとんど見たことがない。

    その部屋を知ったのは、利用案内の紙を何気なく眺めていたときだった。

    長年利用しているが、図書カードを更新しようとした際に初めて気がついた。「寄贈図書室」という項目が、新刊や郷土資料の説明に紛れて、慎ましげに載っていた。

    「寄贈された本を集めています」
    「内容の選別は行いません」
    「配架場所は、図書館に一任していただきます」

    そう書かれていた。

    私は、家の本棚の一角を思い浮かべていた。何度も引っ越しをし、そのたびに整理を迫られながらも、どうしても手放せなかった本がある。

    もう読まないと分かっているのに、処分できずに残っている本。誰かに貸すことも、売ることもできず、ただそこにあるだけの本。

    最近になって、ふと、思った。

    この本は、私のところで眠っているより、どこかで誰かに読まれた方がいいのではないか、と。

    寄贈図書室は、そのための場所に見えた。

    * * *

    本を数冊だけ、バッグに入れて図書館を訪れた。入口をくぐった瞬間、空気が切り離されるみたいに、室内の暖房が温かく迎えてくれた。

    カウンターで声をかけると、司書は慣れた様子で手続きを説明する。本の状態、冊数、返却不可であること。配架場所は図書館側で決定すること。寄贈後の扱いについて、問い合わせには応じられないこと……。

    ひとつひとつは、もっともだった。公平で、効率的。誰に対しても同じ。

    ただそれは、機械的に処理されるということでもあった。

    私は、持ち込んだ本の表紙を思い浮かべていた。駅前の書店の、あの本棚で出会った一冊。新幹線の乗車前に、駅中で急いで買った一冊。

    「……こちらの部屋に、置かれるんですよね。」

    私がそう確認すると、司書は小さくうなずいた。

    「はい。寄贈図書は、基本的にあの部屋にまとめております。」
    「借りる人は、いますか?」

    質問の意図を探るように、一瞬だけ間があった。

    「……正直に言いますと、あまり多くはありません。」

    それ以上の説明はなかった。言いよどんださまに、私はその言葉の少し奥の意味を見た。

    一枚の寄贈用紙を手に取る。それはとても薄く、記載項目も多くない。手続きは、単純だった。

    用紙を片手に、寄贈図書室の前まで行き、扉の前で立ち止まった。鍵はかかっていない。中の様子は、ガラス越しに見える。

    整然と並んだ棚。背表紙の色も大きさも、まちまちで、共通点はない。

    かつて、家に来た知人に言われたことがあるのを思い出した。本が好きと言っていたわりに、自室に本が少ないね、と。

    私は、背表紙だけが並んでいる光景は少し苦手だった。読まれる前の本というよりも、「本を持っていること」の主張のように見えてしまうことがあるからだ。

    もちろん、悪いことじゃない。

    ただ、例えるなら──小説を読んでいるとき、何の脈絡もなく映画や俳優の名前が出てきて、「この作者、自分に酔っているな」と苦笑してしまう、あの感じに似ているかもしれない。

    プレートのついた扉をくぐる。掃除は行き届いていたが、どこか懐かしい、本特有の匂いがした。

    これらの本が、ここに置かれている理由には、共通項がある。

    ──もう、手放された、ということ。

    一冊を、そっと手に取ってみる。少し古い挿し絵の入った、絵本だった。

    これは、誰かのお気に入りの一冊だったのだろうか。それとも、何の思い入れもないまま、ただ行き場を失っただけなのか。

    書いた人、買った人。読んだ人。そして、手放した人。みな、どこかで本が好き、という気持ちを持っていたのだと思う。

    とはいえ「本が好き」という言葉の中には、いろいろな意味が混ざっている。

    私の場合は、数はなくていい。静かにページをめくる時間や、読み終えたあとの沈黙があれば十分。その手元にコーヒーがあれば、なおいい。

    私は、バッグの中の本に触れた。

    この本を、ここに置く。そんな想像をしてみる。誰かが偶然手に取るかもしれないし、誰にも気づかれないまま、棚の一部になるかもしれない。

    それは、価値がないということではない。ただ、関係が結ばれない、というだけ。

    私はカウンターに戻り、寄贈用紙を空白のまま、司書に返した。

    「やめておきます。」

    司書は理由を聞かなかった。「かしこまりました」とだけ言って、用紙を引き出しに戻した。

    * * *

    施設入口にあった自販機で、紙コップのコーヒーを買った。クリームと砂糖は入れない。豆は「濃いめ」を選んだ。手にとると、耐熱カップ越しに熱が伝わる。

    帰り道で、私は誰かの顔を思い浮かべていた。

    この本を、そっと丁寧に開く人。読み終えたあと、静かに閉じる人。

    多くの人の目に触れなくてもいい。置かれる場所より、渡す相手を選びたい。

    コーヒーに口をつける。クリームを足さなかった濃い味が、胸に沁みた。


    あなたへのおすすめ