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誰かの毎日に、小さじ一杯【創作】

    財布野紐ゆるみ

    ある日、動画を流しながら夕飯を作っていて、その配信者が休止したことを知る。

    ──お休みします、ごめんなさい。

    他にも、細かいことが色々と書かれた投稿をしていた。私は何も謝ることないのに、と思った。

    別に毎日見ていたわけではなかった。

    だけど、冷蔵庫を閉めた瞬間に、台所が少し静かだと思う。私はスマホから音声を流しながら、料理や水回りの作業をするのが好きだった。

    夫からは、「そんなの聞きながらよく作業できるな」とたまに言われる。

    別に、じっくり聞いているわけじゃない。シンクを撥ねる水の音で、かき消されるくらいの音量がちょうどよかった。

    でも、今日は流したい音がない。この日に限って、その配信者のラジオのアーカイブが今の気分にぴったり合うような気がした。

    静けさの中、戸棚を開ける音がやけに部屋に響く。

    その静けさで、初めて気づく。自分はあの人の声を生活の一部にしていたんだ。

    * * *

    その夜、録音アプリを開いて、自分の声を吹き込んでみる。

    「こんばんは。」

    たったそれだけ。聞き返してすぐに、録音ごと消す。

    違う。

    欲しかったのは、この声じゃない。

    何度録っても、これじゃない。

    昔から、声を出す仕事に憧れがあった。でも、ちょっとやそっと合唱の練習に参加したり、ボイストレーニングのレッスンを受ける程度では、伸びやかな歌声も、透き通るような発声も、手に入らなかった。

    どうしてだろう。

    お金を持っている友人。勉強ができた従妹。背の高い姉。

    これまで出会ってきた誰も、私に持っていないものを何かしら、持っていた。けれど、だからといってうらやましいとも思ったことはなかった。

    それなのに。

    ──声で、誰かの一日を終わらせる。

    自分がそれをできないだけで、どうしてここまで胸がざわつくんだろう。

    * * *

    翌朝、コンビニで店員が「ありがとうございました」と言う。

    別に特別きれいな声ではない。でも、ちゃんと人の耳に届く声だった。

    喉元をおさえて、少しだけ考える。

    自分では当たり前すぎて気づかない声。そんなものが、世界にはたくさんあふれている。そのどれかは、誰かが何年も欲しがっていたものなのかもしれない。

    今晩の料理も、特別こったものを作るつもりはない。私はわりと、いつも同じような食材、同じようなメニューでいい。

    ふと、肉じゃがの鍋を混ぜながら、あの人ならここで何かちょっとしたことを言うんだろうな、と思った。

    「味見しすぎると、完成したころにはもうお腹いっぱいですからね。」

    そんなことを、以前ラジオで言って笑っていた気がする。顔も知らないのに、笑顔の輪郭だけが自然と浮かんだ。

    私は味付けも、いつもならレシピ通りで作る。でも今日は、なんだか甘い味付けがいい気がした。

    砂糖の容器をもう一度開いて、すくう。これくらいでは、そんなに味付けが大きく変わることもないだろう。

    変わらないなら、ほとんど意味がないのかもしれない。そう思いながら入れた砂糖は、小さじ一杯だった。

    鍋はくつくつと煮えている。美味しそうな音を聞くのも心地いい。でも、生活の音を、もう少しだけ。

    カウンターに置いたスマホで、休止した配信者の更新欄を、開く。

    まだ更新はない。

    確認したあと、画面を閉じる。

    通知は切らず、オンにしたままだ。次に鳴るのが今日でも、一か月後でも、半年後でもいい。

    「できた。」

    火を止める。ひと口だけ、肉じゃがを味見すると、ほんの少しだけ甘かった。

    黙ってもう一度、私は箸を伸ばした。


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