
髪の切りどき【創作】
カレンダーに登録していた予定のリマインド通知がきた。
スマホに表示されているのは「髪」という文字だけ。友人がいない俺のカレンダーには、自分で入れた用事しかスケジューリングされていない。
最近忙しくて、と最後に口にしたのはいつだったか。今の俺は、忙しい人よりもよほど心を失っている気がする。
「髪」の予定は、明日のヘアカットの予約を意味していた。その美容院は、家から自転車で通えるというだけの理由で気に入っている。指名料を支払ってまで指名したいスタイリストはいない。
髪は五か月程度ほったらかしておき、シャンプーのとき2プッシュ必要になってきたら切りどきだ。
短くなればなんでもいいけど、千円カットは当たり外れが大きすぎるのでここに落ち着いている。
しかし、その美容院に行く前に「設定づくり」をせねばならない。当日、美容師の人となんらかする会話の対策のためだ。
だいたい、今日が休みか、これからの今日の予定はあるのか、などを聞かれる。適当に答えればいいかもしれないが、今後も通うので話には整合性を持たせておかないといけない。
なんかしらんが、とにかくめちゃくちゃ話しかけられるのだ。初回来店時のアンケートで、「あまり会話がしたくない、静かに過ごしたい」と書いたが、あれは一体なんだったんだろう。もう一回アンケートとってくれ。
予約は夕方六時だった。タイヤを転がすだけできいきい鳴る相棒の自転車は、ライトを点けると音量が倍になった。
買い替えるほどではない。坂道をこぐときのペダルはやや重いが、この自転車は近場であれば俺を乗せて運ぶという仕事ができる。
店の前の駐輪スペースに自転車を停める。ブレーキの音もまあまあ大きかった。
* * *
待ち時間の間に、この店のネットの口コミを見た。
おおむね高評価で、「話しかけられてうっとうしかったです」みたいなものはひとつもない。
しかし俺はからくりに気づいていた。この店では口コミを残すとポイントが何百円かもらえるのだ。目の前で口コミを確認されるので、どの客もやすやすと悪い口コミは書けない。
そうしているうち、名前を呼ばれた。椅子に腰掛け、袖付きの布に腕を通し、いよいよカットがはじまる。
相変わらず、話しかけられた。誰がカットを担当するかは毎回違ったが、誰があたっても話しかけられるし、目をつぶっていても「お休みになられるんですね」と見逃してはくれない。
「店の先輩がアメリカへ修行に行ったんすよ~。」
ああ、はじまった。この美容師は「はい」か「いいえ」で答えられない話をする。無視するのも気まずい。
のらりくらりと生返事を繰り返していると、いよいよ美容師は遠慮なく「今日は仕事休みっすか~」と聞いた。その問いは、答えに詰まるだけでなく精神面への影響も大きい。
俺は前の職場を退職しており、今現在仕事をしていない。探している最中ではある。やる気がないわけでも、病気なわけでもない。しかしそれだけに言い訳がきかない。
「若手に無理をさせすぎない会社かどうか」を見極めるのは、時間がかかりそうだった。しかし、いい加減に就職すると、また他部署の上司と取っ組み合いの喧嘩になってしまうかもしれない。
満を持して、俺は言った。
「休みです。今日は。」
堪えるけど、そう答えるしかない。明日も明後日も休みだけど。でも、もう少し職探しが進めば、次に来るときには堂々と「今日は休み」って言えるかもしれない。
「口コミ投稿、まだされてませんでしたよね。書いてくださったらポイントつきますよお。」
「また今後にします。」
俺は、このポイントのための口コミ投稿をしていなかった。ポイントは喉から手が出るほど欲しいが、評価を金で買っている気がする仕組みがどうも気持ち悪いからだ。働かざる者だが高楊枝くらいさせてくれ。
確認のため、後方から鏡をかざされる。五か月分の髪と気力を少し失ったことで、見た目すっきり、中身ぐったりの頭が仕上がっていた。
* * *
青天の霹靂という言葉にふさわしい、なんともありがたい申し出があった。その話は、親戚のおばさんから回ってきた。
「うちの子が職場で秘書? みたいな人を探してるんだって。武弘くん、もしよかったら手伝ってあげてよ。」
法事での部屋の片づけやお茶出しで動いているところを見て、俺を評価してくれたおばさんには足を向けて寝られない。
事務所のスタッフとしてとにかく人手がほしい、というのが実際のところだったのかもしれないが。
いとこは難しい資格を持っていて、何人かのスタッフと小さな事務所をやっている。専門的な仕事なので、俺にできることはほとんどない。掃除とか、書類整理とか、電話を取るとか、そのくらいだ。
「とりあえず来てもらえれば助かるから。」
そう言われたので行くことにした。幼いころ漫画本やゲームをくれた兄ちゃんが、いよいよ仕事まで俺にくれたかと思うと頭があがらない。他のスタッフに倣い、俺も兄ちゃんのことは「先生」と呼んだ。
しかし、ビジネスマナーというものを、俺はあまり知らない。パソコンは触れるがメール業務も未経験だ。
事務所での初対面時。いい年して上座と下座について教わって、「じゃあ中座はどこですか」と質問をして笑われた。それに対して「席を立ってどうする」とつっこんでくれた先輩スタッフとは、打ち解けて今では飲み仲間になった。友人、と言えるかは微妙な関係のままだったが。
前の会社では、新人のころから電話を取っていたので、電話そのものはできる。ただ、正しい敬語を使えているかはわからない。
「お世話になっております。少々お待ちくださいませ。」
そんな、まだ自分のものになっていない言葉を発すると、未だに背中がむずがゆくなる。
メールも同じだ。先生の代理で書いていることをどう表現するのか調べ、苦戦して時間をかけていると、兄ちゃんがポンと肩を叩いて「用件が伝わればそれでいいから」と言ってくれた。
仕事は、思っていたよりもできた。いや、できるよう周りに助けてもらえた、というのが正しい。
わからないことは聞けばよかった。むしろ、わからないことを聞ける環境にいることのほうが新鮮だった。
前の職場では、新人が質問すると「それくらい自分で考えて」と突き放されるのが常だった。
自分で考えるためにも、先輩の教えやら現場の肌感覚やら、思考の基礎づくりはなんらか必要じゃないのか、と思っていた。企業理念だけをベースに動くのでは、ざっくりしすぎている。
当時はいろんなことに腹を立てていた。新人に無理をさせることが当たり前になっていること。忙しいから仕方がない、という言葉で、できないことまでやらせること。そこでは「できない」は「やる気がない」と同義の言葉だった。
俺が、他部署の上司と揉めたのは必然だった気がする。
「できないなら休みも出てこい」という意味に近い言葉を部下に言っていたところ、「じゃああんたは寝ずに部下をフォローしろ」と噛みついた。現場建物の入り口の鍵を、床に叩きつけたところまでは覚えている。
でも、今でも俺はあれを喧嘩だと思っていない。
業務内容を説明してもらうよりも前に、この話はいとこにもした。仕事を紹介してもらった以上、黙っているわけにもいかない。
「それで辞めたんだ?」
「まあ……。」
俺は顔を伏せて、鍵を床にぶつけたときのチャリン、という音を思い出していた。その部署の下っぱが、誰よりも早く出勤して扉を開けるために預かっていたものだった。
「……そりゃ、辞めるわ!」
いとこはそれだけ言った。怒られると思っていたわけではないが、少しだけ意外だった。
「でも、うちではそういうのはないから。」
「あ……殴り合いが?」
「それもないし、新人に無理させることもないよ。」
それを聞いて、俺はようやく顔を上げていとこの顔を見ることができた。
* * *
カレンダーの予定は相変わらず埋まらない。けれど、働いていると時間が進む感覚があった。
それは以前から知っていたはずなのに、仕事をしていない期間が長くなると、時間は自分の周りだけをすり抜けていくような感じがしていた。
だから髪を切るのに、シャンプーボトルのプッシュ回数という目安を自分で決めていたのかもしれない。
事務所で仕事をしていると、少なくとも午前九時から午後五時くらいまでは。俺の時間も、世の中の時間と同じ速さで進んでいる気がした。
ただ、雇用形態は少し変わっている。
毎日事務所には行くけれど、会社員というわけではない。仕事を頼まれて、仕事をして、その分をもらう。
「フリーランスみたいなもんだと思って。」
そう、いとこは言った。俺もそう思うことにした。退職金やボーナスなんかはないけれど、前職とほとんど給料は変わらない上、睡眠時間が十分にとれた。
でも、美容院で聞かれたらどう答えればいいのかは、まだわからなかった。
「お仕事は何されてるんですか?」
それなら、事務所で働いてます、と答えればいい。問題は、「今日は仕事休みっすか」の方。
俺は、「今日は休みです」のあと「明日は仕事ですけど」と続けて答える自分の姿をなんとなく想像した。
カレンダーを開く。次の美容院の予約の日が近づいていた。今回は、まだ髪が伸びきってくる前に、職場の休みを見越して早めに予約した。
予定の名前には、前と同じように「髪」と入力してある。
髪を切りに行くときまで、まだ仕事をしているかどうかは、わからない。その日を「休み」と呼んでいいかどうかも。
まだ伸びていない前髪に触れる。次の休みに、新しい自転車を見に行くのも悪くない。なんとなく、そう思えた。