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偉い形式【創作】

    財布野紐ゆるみ

    国際学会の時期が近づくと、経理部には普段見ない種類の問い合わせが増える。

    外貨建ての領収書に、英文の参加証明書、キャンセル規定の共有依頼。研究開発部は理系人材が多く、年に数回ほど海外出張が発生する。

    「麗さあん、これどうしましょう。」

    隣の席で、美月詩乃が困った顔をしていた。差戻し依頼のメールが、画面に表示されている。頭の中で、読み上げる。

    学会登録情報について、敬称を「Mr.」ではなく「Dr.」へ変更願います。あわせて所属欄へ「PhD」表記の追記をお願いします……。

    「ふうむ。」

    私、宮村麗は、マグカップを置いた。

    「……前も、似たようなの来てたっけ?」
    「はい。これで三回目です。」

    申請者名は、高原啓介。研究開発部所属。共同研究先の大学と一緒に、海外シンポジウムへ参加予定とのことだ。

    「これ、うちで直接直せないんですか?」
    「無理だね。登録システムが総務側の管理だから。」
    「ですよねえ……。」

    詩乃ちゃんが、露骨に肩を落とす。

    私たちの扱う経理申請管理クラウドシステム。このシステムの導入について当初はいろいろと揉めたものの、フィードバックを受けて全面刷新されてからは随分と使いやすくなった。

    その結果、今では旅費精算や航空券予約、こういったイベントの参加登録まで、複数部署をまたいで連携されるようになっている。

    便利にはなった。ただし、部署によって触れる権限が異なり、一箇所の修正は別部署へ波及する。……要するに、「たった二文字」の変更がけっこう面倒なのだ。

    「敬称変えると、渡航保険の英文証明も再出力なんだよね……。」
    「えっ、それも連動してるんですか。」
    「名前情報ひっぱってるから。」
    「うわぁ~……。」

    詩乃ちゃんは世紀末のような表情で机に突っ伏した。この子は仕事中、よく絶望する。

    「『Mr.』じゃ駄目なんですかね。」
    「本人にとっては重要なんだろうね。」

    私はそう答えながらも、少しだけ不思議だった。

    PhDか。博士号取得が大変なものだということくらい、知っている。働きながら論文を仕上げたのなら、なおさらだ。

    ただ、長く事務をやっていると、別の経験則も身につく。肩書に無頓着な人ほど、周囲から自然に一目置かれているということだ。

    海外の賞を取った教授が「席なんてどこでもいいよ」と笑っている一方で、論文一本で肩書や敬称に妙にこだわる人もいる。学歴と、人間の余裕は比例しない。

    そういえば、同じ経理のパートさんが元銀行員で、接客で感じたことを同じような言葉で言っていたっけ。中途半端な金持ちが一番偉そうで、本当の金持ちは謙虚で余裕があるもんだって。

    「ま、仕方ない。総務へ差戻し入れとくね。」
    「はい……。」

    詩乃ちゃんが操作履歴を残しながら、小さくため息をつく。

    「絶対、総務のはっしーさん嫌がりますよ、これ。」
    「うん。仕事とはいえ、最近いろいろ助けてもらってるもんね。今後の休み明けに、お土産でも持ってくよ。」

    そこまで麗さんがしなくてもいいのに、と口を尖らせる詩乃ちゃん。

    「でも、この『Pなんとか』であることは学術的信用に関わるって書いてますよ。そんな変わるもんなんです?」

    私は少し考えた。詩乃ちゃんは短大卒だし、私だって四年制大学の学士号しか持っていない。

    「共同研究先、大学なんでしょう。」
    「はい。」
    「だったら、向こうは普通に『Dr.』だらけでしょうね。」
    「あー……」

    詩乃ちゃんは納得しかけて、でも途中で首を傾げた。

    「でも、だったらなおさら、自分からわざわざ触れまわらなくちゃいけないものなのかなあ、って思います..…。」

    その通りだった。けれど、それを口に出すほど意地悪でもない。共同研究先が大学なら、肩書ひとつで立場の見え方が変わることもあるのかもしれない。

    苦笑して、メール作成画面を開く。

    「総務部各位、と。」

    学会登録情報の敬称修正依頼がありました。関連帳票への反映確認についてお願いいたします。……送信。

    数分後、総務から即座にチャットが返ってきた。

    『ま~た、高原さんですか……』

    詩乃ちゃんが吹き出す。

    「この人、有名人なんだ。」
    「しっ。」

    そうは言ったものの、少し笑ってしまった。でも。

    「でも、なんでなんだろうね。そこまでこだわる理由。」

    この人にもきっと、譲れないものがあるんだろう。たぶん、いい加減で能力のない人じゃない。結果とか、評価とか。適切じゃない扱いが許せないだけなのかもしれない。

    私が言ったあと、詩乃ちゃんが、ぽそりとこぼした。

    「やっぱ、他の人と違ってPDFだからじゃないですか。」
    「……PDF?」

    一瞬、意味がわからなかった。数秒遅れて理解して、耐えきれず吹き出した。アクロバットな言い間違いだ。

    「ちょ、詩乃ちゃん……っ。PhDね。」
    「違いましたか?」
    「惜しいけど違う……!」

    向かいで請求書整理をしていた元銀行員の女性も、肩を震わせて笑っていた。

    詩乃ちゃんはそんなことは気にも留めずに、操作ログへ処理内容を入力する。敬称修正対応、関連部署へ連携済み。

    でも、そりゃあそうだ。

    経理から見れば、肩書は支払先名義なんかと同じで、「間違えると面倒な文字列」程度のもの。それ以上でも、以下でもないんだから。

    たった二文字。……けれどときどき、その二文字に、自分の積み重ねた時間を見てしまう人もいる。

    隣に視線をやると、詩乃ちゃんはもう次の申請画面を開いていた。



    ※以下は関連作品になります。


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