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十七人の集合写真【第六話 群泳】

    財布野紐ゆるみ


    第六話 群泳


    「逢坂さん、なにやってるんですか。」

    松本が、いつものように逢坂に声をかける。

    「アルのノートPCのセットアップです。あ、すみません、松本さんの席にはみ出しちゃって。」
    「大丈夫ですよ。でも、セットアップなんて、技術スタッフの仕事じゃないんですか。」

    松本は、機械苦手な自分もいずれは任されるのだろうかとか、そういった点を恐れているらしかった。

    「うーん。穂波さんも百合川さんも、解析だけじゃなくてサーバメンテナンスとかネットワーク系の方も担当されてますからね。……こっちはこっちで、できることはお手伝いしたくて。」
    「お忙しいってことですか。でも百合川さんとか、先生方がいないとき、よく昼寝してません?」

    苦笑する逢坂。

    「ま、よろしいんじゃないですか。私たち直雇用の職員と違って、技術スタッフの方たちは時間に縛られない業務委託形態ですし。」

    朝から夕方まで、決められた時間内で勤務する時間給の逢坂や松本と違って、成果物納品で契約している業務委託者の場合は、勤務時間に融通が利く。

    朝の弱い松本からすれば、それがうらやましいのだろう。

    「でも……。」

    松本はぼやく。

    「月末の請求書だけはすぐ出すんですよね。」

    はは、と逢坂は笑った。

    「まあまあ。それに、今やってるソフトウェアのインストールって、職員のIDがないとできないんで。」

    外部者扱いの業務委託の方に発行するIDと、職員のIDでは権限が違う。

    「結局、先生や私たちでやるしかないんですよね。」

    逢坂は、セキュリティソフトが動作していることを確認してから、シャットダウンを選択する。音が消えて、画面は暗くなった。メモリもストレージも、事務のものとは比較にならない。積んでいる性能に比べれば、拍子抜けするほど軽かった。

    事務スタッフはファイルを専用のNASに保管するのでストレージはさほど必要ないし、メモリも先のPCの四分の一もあれば十分すぎるくらいだった。

    PCの「メモリ」は、作業場みたいなものだと以前聞いたことがある。そこに広げられる地図の枚数が多いほど、見られる景色が広がるということなのだろう。

    高価な貸与デバイスに、大きなモニター。五十嵐先生は、研究に必要なものや作業環境には研究費を惜しまなかった。

    画像処理に、シミュレーション解析。リモートサーバ上で計算を回すだけでなく、ローカルのデバイスにもそれだけの性能が求められる。それをきっと、五十嵐先生も、アルも理解していた。

    逢坂は、この機器の見積もりを業者にとったときの数字を思い出していた。「設備備品」に相当する金額。自分は、数字でぼんやりとしかわからない。でも、わかることもあった。

    「……期待されてるよ。」

    ぽつりとつぶやいた声は、隣席の松本にも届かない。デバイスを大事に抱えて、逢坂はアルの座る席の方へ向かう。

    そのとき、手提げ袋も一緒に持っていった。中には、彼へ渡すために選んだ本が入っていた。

    * * *

    アルが来て、一週間ほど経ったころだった。

    昼休み。研究室の隅でコンビニのおにぎりを食べながら、逢坂はアルが学生たちと話しているのを眺めていた。

    知らない国から来て、知らない言葉の中に飛び込んできて。それでも笑っている。

    すごいな、と思った。

    コミュニケーション能力は相当高かった。でも、そういうことではない。自分には、たぶんできない。

    逢坂は地元の大学を出て、そのまま地元で就職して、そのタイミングでひとり暮らしをはじめて。数年で退職。……そして、ここにたどり着いた。

    前の企業でも、事務業務をしていた。辞めたきっかけは、ひとことでは言い表しづらい。毎日決まりきった業務をするのが性に合っていなかったのもあるし、顧客対応に神経をすり減らすのに疲れてしまったのもあった。

    でもきっと大きかったのは、職務じゃなくて、人だ。

    媚びることで嫌な業務を避け、好待遇を得ようとする同僚たち。そんな倫理のかけ離れた連中を一瞬でも羨ましいと思ってしまった自分。そういったものから、距離を置きたかったんだと思う。

    逢坂は今の職場に、すっかり馴染んでいた。はじめは手探りだったけれど、それなりに仕事もできるようになった。

    覚えることが増えるのは嫌いじゃない。知らない手続きが、次は簡単に片づくようになるのも、ちょっと気持ちいい。

    ただ。

    前の仕事はもっと単純だった。決まったファイルを開いて。いつから使われているかわからない手順書の通りに、データを入力する。

    新しい場所に飛び込んだり。成果を数字として示すために挑戦したり。そういった刺激は、なかったかもしれない。締切に間に合えば、それで終わりだ。

    ここでは毎日が新鮮だった。マニュアルは作っても作っても、年度をまたげば仕組みが新しくなる。仕事の種類だって、雑務も含めればとんでもなく幅が広い。

    経費執行。先生の出張申請に、授業対応の補助。講師の招聘や謝金の手続き。資産管理。Webサイト更新。文献管理。倫理申請。

    そして、アルのような留学生の受け入れ。自分自身の雇用経費確認や勤怠管理も仕事のうちだ。

    刺激が多い反面、埋められない部分もあった。前の職では、窓口で対面した人にお礼を言われることがあった。ここでは、「ありがとう」はあまり聞かない。誰かの仕事と、誰かの仕事。そのあわいで、自分はいつも何かをしている。

    アルはホワイトボードの前で、魚の絵を描いて、他の留学生に何かを説明していた。おそらく自分の研究内容のことだろう。面談での、彼の早口を思い出す。

    アルは、遠い国から、やりたいことのためにここへ来た。自分には、そういうものがあっただろうか。

    今は新しい業務が次から次へと湧いて出てくるから、少なくとも退屈はしない。作業して、学んで、対応していればいつの間にか帰る時間になる。それがなくなってしまったら。目指す場所が消えてしまったら、自分には何が残るのだろうか。

    考えても、すぐには思いつかなかった。そんな逢坂を見て、隣の席の松本が話しかける。

    「どうしたんですか? アルさんの方ばかり見て。」

    その表情は少しだけ、意地悪そうな笑みが浮かんでいるようだった。

    「……彼、ハンサムですもんね。逢坂さんと、年も同じくらいですし。」
    「や、やめてくださいよ。そういうのじゃないんです。」

    逢坂は慌てて、モニターの方に視線を戻した。

    * * *

    その週の終わりごろ、業者が新しいサーバを搬入してきた。台車に載せられた段ボール箱は、逢坂が両手を広げても抱えられないほどの大きさだった。それがごとごとと重量感のある音を響かせながら、研究室のあるフロアの廊下をゆっくり通ってくる。

    「失礼します。こちら、検品お願いしまーす。」

    逢坂は納品書を受け取り、注文番号を照合した。構内の検収センターを通っていることを確認し、受領のサインをする。

    二台。

    研究室予算と部局予算、それぞれ別口で執行したもの。そのうち一台は、逢坂が何度も差し戻されながら起案し直したものだった。中身を確認する。シルバーの筐体。ここから少し離れた、計算機室に設置される予定だと聞いている。

    中央のシステムに組み込み、機器を部局内で共有して使い効率化を図ろうという試みだといつか聞いた。それに乗じて、五十嵐教授も一台購入したらしい。

    本当は別々に発注する予定だったが、大学事務から「同時購入なら一本化してください」と差し戻された。

    一定額を超える備品は、教員判断だけで発注できない。大学事務を通して発注する必要があるため、教員発注に対し「事務発注」と呼ばれている。

    さらに金額が上がると契約案件となり、見積書を取り直して、製品仕様書やカタログを手配の上、公開見積合わせに回される。

    しかし今回の件で言えば、一般競争はあまり大きな意味を持たなかった。その業者固有の製品名が付されている時点で、他業者が同じ条件で出せるわけがない。技術の穂波さんが、バイネームってやつだなと言っていたっけ。

    形だけの競争。

    大学の金は税金だ。不正防止のための手続きなのだと頭では理解している。だが、そのたびに五十嵐先生は不機嫌になった。

    「研究が遅れるだけだ。大学事務は無駄な仕事ばかり増やす。」

    その言葉を、逢坂は何度も聞いた。五十嵐は決して、大学によくいる「面倒くさい」先生ではなかった。しかし、教授という職位を持つ人が不満をあらわにすると、そのたびに現場の空気はびりびりと激しく震えた。

    しかも今回、手がかかったのはそれだけではない。

    納品段階で、業者側の請求書と発注番号に一部食い違いがあり、修正の電話を二往復している。同じ事務の松本と連携し、状況の確認や事務への事前連絡など、けっこうな手間を要した。

    ひとつ違うだけで、書類の数も、ハンコの音も、単純計算で倍になる。

    ようやく、ここまでたどり着いた。

    正直、逢坂からすればただの箱だった。重くて、高くて、少し面倒な箱。使い方も知らなければ、使われているところを見ることもない。

    財務会計システムで数字を打ち込んで、データと伝票が大学経理に流れていけば、研究室事務の手からは離れていく。

    先生の持つ、とある外部資金研究課題の経費が、年度末に向けてゼロにする見通しが立った。その程度のことだった。

    箱に触れて、昨年度末の経費執行のやりとりに思いを馳せる。「冬場の足元が冷え込むので、パネルヒーターを買えないか」と先生に相談した日。研究環境でなく、個人環境だという理由で、ばっさりと一刀両断された。

    この箱ひとつで、パネルヒーターなら五百台は買えるんじゃないか。

    そんなことを考えていたときだった。

    「終わりましたか?」

    後ろから英語で声が聞こえた。振り向くとアルがいた。

    「うっ、うん。たぶん。」

    アルはサーバを見るなり、目を見開いた。

    「これ……新しいGPUマシンですか?」
    「そうみたい。」

    仕様書にあった、「GPU二基」の文字列を思い出す。型番のアルファベットは忘れてしまった。詳しい内容は、わからない。

    アルはしゃがみ込み、仕様書を見た。その顔色が変わる。

    「九十六ギガが、ふたつも……?」

    思わず英語が速くなる。

    「This is incredible. With this, I can run full-resolution behavioral analysis without splitting batches.」

    逢坂には半分もわからない。でも、その表情と声色で、見える部分もあった。

    「えっと……すごいってこと?」

    アルは勢いよく立ち上がった。

    「すごいです。」

    ここで、自席にあった翻訳機を持ってきて、やり取りを続けた。要するに、今まで一週間かけていた解析が、一日で終わるかもしれない、という内容だった。

    「そんなに?」
    「レルメドールでは無理でした。メモリが足りなくて。途中で一度止めて、スクリプトを書き換えて、ジョブを分割して、また繋げて……。」

    アルは身振りまで混じえて説明した。魚の行動追跡。神経発火の同時計測。欠損モデルの比較解析。

    専門用語はほとんどわからない。翻訳機も、難しい単語に戸惑っているようだ。何度も日本語が表示されては、見当違いな変換を繰り返す。

    でも、アルの目だけはよくわかった。渇いた砂漠でオアシスを見つけた旅人のように、これ以上ない希望の光をそこにたたえていた。

    ああ、この人はいま、本当に嬉しいんだ。

    逢坂はサーバを見た。無機質で鈍い色に光る箱が、静かに佇んでいる。見積書と注文番号のことで頭を抱えた、あの数週間を思い出す。

    無駄な仕事……だと思っていた。横から流れてきて、どこかに流れていくだけの。

    少なくとも、自分が何かを前に進めた感覚なんてなかった。

    それでも。

    その箱ひとつで、この人の時間が何日も生まれるのなら。その時間の先に、論文や発見や、まだ見たことのない未来があるのなら。

    自分の仕事も、案外、ちゃんと誰かの役に立っていたのかもしれない。

    「ありがとう。」

    アルがそう言った。前の職場では毎日のように聞いていた言葉だった。なのに、ここで聞くそれは、妙に重かった。逢坂は少しだけ驚いて、それから笑った。

    「ちゃんと動いたら、私の手柄ってことで。」

    アルも笑った。

    「もちろんです。」

    GPUを搭載したサーバはその後、無事システムに組み込まれたと聞いた。

    部局の借りている計算機室だったが、五十嵐研からも技術スタッフの人手を捻出し、ラックマウントにソフトウェアの導入、ストレージ機器との連携などをサポートしたらしい。GPUを稼働させたときの排熱はすさまじかったと、技術の穂波は後に語った。

    アルはもちろん、他の研究室メンバーからも資源の増設を喜ぶ声が聞こえた。

    問題なく回り始めた研究室。その窓の外には、変わらないキャンパスの日常が、穏やかに広がっていた。

    * * *

    ある日、逢坂が書類を確認する。

    「アル。この書類さ、来日前に原本必要だってメールしたと思うけど、持ってきた?」

    アルは困惑の表情を浮かべた。彼がそんな顔を見せるのは、珍しい。いつもは「何でもわかってますよ」という顔で飄々と答えるのに。

    持ち込んだ書類一式について、アルはすでに逢坂や松本に手渡ししていた。鞄を底まで探っても、それらしき書類は見当たらない。精悍な顔つきから、みるみるうちに血の気が引いていく。

    「まずい……ない!」
    「……ちょっと待ってて。」

    受話器をとって、内線の四桁をさっと打ち込む逢坂。落ち着こうとしても、どうしたって手は震えた。呼び出し先は、理生命科学研究科の大学院係だ。アルの受け入れで散々お世話になったため、頭よりもその手が番号を覚えていた。

    「もしもし。いつもお世話になります。五十嵐研の逢坂です。」

    アルが真剣な目つきでそれを見つめる。自国に連絡をして、郵送で送ってもらうには、母には荷が重い。自ら取りに帰るには、費用がかかりすぎる。

    「ええ。はい。誓約書です。来日時に原本を持ってくる、でしたよね……。」

    逢坂の眼鏡の奥の瞳も、憂慮の色に沈んでいる。そもそも、今の彼の国の情勢で、帰れるのだろうか。

    「ああ。そうなんですね。はい。」

    逢坂の口角が少し傾いたのがわかった。アルは息を詰めたまま、会話の終わりを待つ。

    「承知しました。はい。そのように。……失礼いたします。」

    逢坂は通話を切って、翻訳機をポケットから取り出す。アルはその動作を待つのもまどろっこしい気持ちだった。

    「安心して。あれは、大学内部に出す書類だった。」

    ようやくアルも、表情を和らげる。思わず、自席のチェアに重く沈み込む。反動で、キャスターが少しだけ後ろに転がった。

    元々、データで受領していた誓約書。受入先決定後に、辞退しない旨を記した、署名入りの書類だった。留学課へ提出するため、原本が必要だったのだ。

    再度、署名して送り直せば大きな問題はないという。

    逢坂は目を細めて笑う。

    「よかったね、アル。あなた、国に帰らなきゃならないかと思ったよ。」

    アルは胸に手を置いて、安堵する。逢坂のことだから、彼女に何度も釘をさされた書類だったのだろう。しかし、詳細を覚えていなかった。それだけあのとき、国では必死だったのだ。

    都市への砲撃が始まり、母と比較的安全な村へ移る準備をしていたころだっただろうか。

    メールは読んだ。たしかに読んだはずだ。けれど、その日どのように返事をしたのかはとうとう思い出せなかった。


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