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水族館と自由なページ【創作】

    財布野紐ゆるみ

    夏休みの午後、僕はひとりで水族館に来ていた。バッグの中には、描きかけの漫画ノートと鉛筆。目的は、ただ魚を見るだけじゃない。水族館を、次に描く漫画の舞台にしたかったのだ。

    ──絵はうまいんだけどね、キャラの魅力や見せ方が──読者を釘付けにするような、『生命力』がないとね。

    自分の漫画を持ち込んで、見てもらった雑誌社の編集の人に言われた言葉。思い出すたび悔しいけど、要するに僕の漫画には伸びしろがあるってことだ。

    入口で買ったチケットを握りしめ、僕はゆっくりと館内を歩く。ガラス越しに漂う青い光。水の揺らぎ。魚たちの無表情な泳ぎ。

    「ふーん、これが背景に使えるかも。」

    僕はノートを取り出し、ラフを描き始めた。ひとりで来れば、同じ水槽の前で時間をいくら使おうが文句を言われることもない。その場の雰囲気、光と色をイラストに閉じ込めるように、描く。

    小さなタチウオの群れが、光を反射して銀色の線を描いている。その動きを一コマずつ、鉛筆でなぞる。編集者に言われた「生命力」から連想して、自由でのびのび泳ぎ回る魚をモチーフに漫画に描こう、と水族館に来たかいがある。

    後ろから子どもたちの笑い声が聞こえるが、僕は気にせず線を引き続けた。

    「止まった写真を見て描くだけじゃ、見えないこともあるからね……。」

    独り言をつぶやくと、水槽の中の魚が目の前でぴたっと停止したように見えた。

    次の水槽には、クラゲの展示。宙に浮くように漂う透明な体は、僕の漫画に不思議な動きを加えてくれる。

    「このふわふわ感を、コマでどう表現するかな……。見た目に合わせて、キャラクターの性格も考えて……。」

    手を止めて、目で追う。足を止めながら、靴でトントンと床を鳴らす。クラゲは、僕の心拍に合わせるかのように揺れている。

    やがて、ペンギンのプールの前に来た。

    こいつらは、本当に人間の漫画キャラみたいにコミカルだ。ぴゅーっとすばやく潜ったり、滑稽に歩いたり、そして時には転んだり。

    僕は笑みをこらえながら、ページに小さな吹き出しを描く。

    「ペンギンさん、取材させてくれるかい?」

    想像するだけで、ペンギンたちの動きがストーリーになる。僕は、整然とした時間の流れに沿っていつも通り描いてゆく。

    けれど、なんだか窮屈で、わくわくが足りない気がしていた。こんなに魚たちは自由に泳ぐのに、僕のページはなんだかまだ固くて、動きがない。

    中学の仲間うちでやっている交換ノートでは、僕の漫画はおおむね好評だ。画力だって、小学校のころと比べてもずっと上達している。

    それなのに、どうしてだろう。

    ページを繰りつつ、小学校の教室を思い出していた。

    図工の時間に描いた自画像。掲示されるなんて知らず、僕は漫画みたいなデフォルメした顔を描いた。「面白く描いてやろう」くらいの、いたずらっぽい気持ちだったと思う。

    参観日、父兄が後ろの壁を見て、僕の絵を中心にざわめいた。振り向くと、みんな笑顔だった。胸が熱くなると同時に、絵から飛び出した喜びが確かにあった。

    ふと気づくと、隣に小さな女の子が立っていた。

    「なに描いてるのー?」

    びっくりして顔を上げると、女の子は水族館のパンフレットを持って僕を見つめていた。

    「えっと……お魚が出てくる漫画だよ。」

    僕は少し照れながら答える。

    女の子はニコリと笑うと、自分の持っていたパンフレットを広げて僕に差し出した。

    「私も、描くの手伝う!」

    僕は戸惑いながらも、笑顔でノートを渡す。

    彼女は、ノートにペンを置いて、自由に落書きを始める。

    魚が空を飛び、クラゲがタコと入れ替わり、ペンギンが水槽から飛び出す。コマの枠は無視され、物理法則もぐちゃぐちゃ。

    僕は息を呑んだ。これは……めちゃくちゃだ。だけど。

    「ちょっと僕も、こっちのページに描いてみるよ。」

    女の子の背に合わせて、低くて平らな腰かけにノートを開き、膝立ちで自分も描くことにする。

    女の子の描き方にならうように、デフォルメした水棲生物を、とにかく「今までと違う」描き方で描くことに注力した。エビが立ち上がる。クジラが変身する。カエルは……さてどうしようか。

    僕のページも、同じようにめちゃくちゃになった。……けれど、生き生きとしていて面白い。館内の人も数人、僕たちの周りに集まって、漫画のライブドローイングを見ていた。

    これまでの絵と比べて、決して美しくはない。ただ、これまでの正確すぎるラフスケッチとは、描く線の表情が少し違って見えた。

    「はみ出して書くのも、迫力や臨場感があっていいな。」

    女の子の絵が、刺激になり、参考になる。この水槽はきれいだし、魚も悠々と泳いでいるが、閉じられた世界でしかない。きれいに収めようとする癖が、いつのまにか線を窮屈にしていたのかもしれない。

    僕らは時間を忘れて、いくつもページを埋めていった。

    どれくらい時間が経っただろうか。しばらくすると、女の子のお母さんらしき女性がこちらに駆けてきた。

    「あやちゃん、捜したのよ! だめでしょ。勝手にいなくなったら。……すみません、ご迷惑をおかけしてしまって。」

    そう言われて、女の子がひとりで来ているわけがないな、と今さら気づいた。

    「あ、いえ、僕は何も。こちらこそ、すみません。」
    「えー、もう終わり?」

    女の子がほっぺをふくらませて言う。

    僕も同じ気持ちだったが、ノートを見下ろすと、そこには水族館で過ごした時間が漫画になっていた。

    クラゲの透明感、タチウオの銀色の線、ペンギンのコミカルな動き。自然界の水域にはいない、たくさんの生き物たち。そして、女の子の笑顔も。

    「ありがとう。描くのを手伝ってもらって。」

    僕が言うと、女の子は振り返りながら、笑顔で手を振っていた。

    水族館を後にする。ノートはちょっぴり重くなったけれど、心は軽やかだった。家に戻って、いますぐにでも描き始めたい。

    自由な発想が、こんなにわくわくさせてくれるなんて。

    外の夏の光が、館内の青い光と混ざり合う。今日の水族館は、魚だけでなく、人の心も泳がせてくれた気がする。

    心の中でそっとつぶやく。

    ──僕の漫画は、水槽のガラスを割って、外の世界へ飛び出すんだ。

    頭の中では、どこまでも続く青い海がずっと揺れていた。


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