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見て動いて【創作】

    財布野紐ゆるみ

    「悪いけど、わざわざ聞かないで見て動いてよ。」

    俺は視線を書類に落としたまま、身体だけを向けて、その新人へいつものセリフを繰り返した。

    先輩職員の行動を真似していれば、そのうちわかるようになる。次の一手やトラブル時の対応。自分だって数年かけてそうしてきたし、それがこの仕事をうまくしのぐ秘訣だとさえ思っていた。

    「うづきの森ホーム」の人員は、限られている。主任職員だからといって、現場から離れていられるほど余裕のある施設じゃない。部下に毎度、細かい指示を出すには身体が一本ではどう足掻いても足りなかった。

    新人も、真面目にやっていないわけではない。若いだけあって体力があるのは心強いし、配茶の手際だって悪くない。

    老人ホームの優先順位は、利用者の動き次第で大きく入れ替わる。「バン!」という転倒の音ひとつで、その日の仕事がひっくり返ることなんてざらだ。

    どれを今すべきか、はいつだって変動する。見て覚えろ、は最大の指導の言葉だと思っている。無論、ひとことだけで完全に教えることができれば誰も苦労しない。

    新人は、小声で「……わかりました」とだけ告げ、退室した。その肩を落としたような後ろ姿に、もう一言かけてやろうかと迷って、やめた。

    説明する暇がないことを、説明しても仕方がない。

    いずれわかるだろう。あの新人も、真面目で実直なところがある。

    彼へはつい最近、洗濯物を持っていくタイミングについて「優先順位が違う」と注意したところだった。あれを気にしているからこそ、作業うかがいに来たのかもしれない。

    そんな胸の奥に湧いたもやもやは、すぐには行き場を見つけきれないようだった。しかしそれもほどなくして、介護現場の中に沈んでいく。

    保険の更新書類のチェックが終わり、俺は次に取材依頼のスケジュールを入れる作業へと移った。

    * * *

    施設のトイレが、最近改装された。木目調の、イマドキな空間。ただ、入口壁面のギザギザした茶色い模様は、俺には使い終わった割りばしみたいに見えていた。

    施工会社によると、入口の男女マークも、デザイン賞を受賞した作品らしい。

    ただ俺は、そのピクトグラムを見たときに一瞬、認識が滑るような感覚があったことが、少し引っかかっていた。

    職員からすれば、その程度の話だった。しかし、問題が起きたのは、肝心の利用者側でだった。

    毎日、最低ひとりは利用者が間違えて入った。男性は女性用へ、女性は男性用へ。互いのトイレへ、迷い込んでいた。

    認知症の人に限った話ではない。目が悪い人に、急いでいる人。国籍が外国の家族。それらのいずれに当てはまらない人までも。

    工事の前には起こらなかった問題。男女マークが原因であることは明白だった。

    俺を含めた職員たちは「またか」「やれやれ」で済ませている。

    中には開き直る者や、怒る利用者もいないわけではなかった。しかし多くの、マークを見誤った利用者はその都度、謝っていた。

    「ごめんなさい。」
    「申し訳ない。」

    頭を下げるその姿を見て、「しょうがない」と思う。そう思うしかない、と思っていた。

    そんなある日、この問題を見かねたベテラン職員が、ラミネートした案内を掲示した。

    「男性用」「女性用」。追加された文言は、それだけだった。

    少しでも伝わるようにという、苦肉の策だったのだろうと思う。しかし、効果はてきめんだった。

    翌日から、間違いはほぼ消えた。俺は驚いていた。この結果がわかっていれば、倉庫のラミネーターを引っ張り出してくる手間を惜しまず、自ら進んで実践したのに。

    その案内は、壁のデザインの一部、ギザギザの割りばし部分を少し覆う格好で掲示されていた。

    なんとなくそれを見て、悪くないな、と思った。

    * * *

    先日、針を通すようにカレンダーに組み込んだその予定は、デザイン賞についての取材だった。

    施設長の緊張が、俺にも伝わってくる。地元メディアを相手するのに、そこまで身構えることないような気がするが、何も言うまいと黙っていた。

    取材班のひとりが、トイレの前を見てこちらを振り返った。

    「すいません。この紙だけ、外せますかね?」

    例の、ラミネートされた男性用、女性用の案内掲示だった。

    「どうしてですか。」

    俺は聞いた。意図をなんとなく汲んだうえで聞き返したのは、少し性格が悪かったかもしれない。

    「どうしても、写真映えがですね……。」
    「しかし、これを貼ってから間違える利用者さんがいなくなりました。」

    沈黙が数秒。困ったように顔を見合わせる、取材チームのふたり。

    「でも、せっかくの作品の意図が伝わらないというか。」
    「当ホームの利用者さんは、意図を読みには来ておられませんので。」

    施設長の視線を感じる。ひやひやしているようでありながら、俺の言いたいことはわかる、というような顔でもあった。

    「……ま、うちの担当がそう言うもので。」

    施設長は、そう言いながら笑う。取材班のひとりはカメラの位置を下げ、苦笑いするだけだった。

    取材はあっと言う間に終わった。取材班が帰ったあとも、ラミネートの紙だけは、その場所に残った。それからの施設の日常にも、何も変わりはない。

    その後、メディア誌にこの施設のことが載ったのかどうかは、俺にはわからない。

    俺は、トイレの前を通るたびに、ピクトグラムを見て思った。

    利用者は、マークじゃなく文字を読んでいた。

    あのピクトグラムは、なにかの賞を受賞した、優秀なデザインのはずだった。だが、今これを見ている者はいるのだろうか。

    ふと、「男性用、女性用」のラミネートの端の部分が少しだけめくれていることに気づく。俺はねぎらうように、その部分をぐっと押さえた。

    * * *

    この日の朝の用務は、少しだけ余裕があった。最近お目にかかれていなかった強めの日差しが、窓からこぼれて机の一部を温めていた。

    俺は事務室で、引出しから引っ張り出したA4の用紙に、ボールペンで手書きしてメモをつくった。この仕事をはじめたばかりのころに書いた、自分用のノートをアレンジした内容だった。

    朝の基本、起床介助、トイレ誘導、配茶、バイタル、記録……。

    その文字列の横に「トラブルが起きたら、途中で止めてそちらを優先。終わったらまたここへ戻る」とだけ添えた。

    「見て動いて」だと、あのトイレのマークと同じじゃないか。なにを見るべきか、どう動くべきかは、「わかっている人」にしかわからない。

    「すまん、ちょっといいか。」

    部屋の外へ出て、俺が声をかけたのは、例の新人だった。「はい」と、いつも通りのよく通る声が返ってくる。

    はじめこそ、こわごわと様子をうかがうようにしていた。しかし、少し話して紙を手渡すと、「ありがとうございます」の声とともに表情がぱっと明るくなった。新人はそれを丁寧に折りたたみ、胸ポケットにしまう。

    これだけ書いてあれば、ちょっとは遠回りが減るだろう。「うづきの森ホーム」が、今日も一日回るために、たぶん必要なことだった。


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