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青鬼の太鼓【創作】

    財布野紐ゆるみ

    社内の新規事業コンペは、来週に迫っていた。テーマは、次世代教育事業。けれど、会社の本命案はもう決まっている。

    AI個別指導プラットフォーム。部長のチームが出す案だ。社長がAI好きなのは社内でも有名な話だし、あのチームは実際、会社のエースみたいなものだった。

    同僚たちは言う。

    「どうせ、あれ通るでしょ。」

    だから資料も、みんな形式だけのものを作る。コンペは予定調和の儀式みたいなものだ。

    * * *

    たとえば、小学校の卒業式。これが、その場で卒業できるかどうかが判明するイベントであれば、わかる。

    しかし、卒業証書が授与されることや、送辞や答辞が行われること。歌を歌うことも、すべてが決まりきったものでしかない。それなのに、リハーサルだけはしっかりやる。

    なんの意味があって行われるのだろう。……ずっと、そんなふうに思っていた。

    けれど気がつくと、私はスライドを作り直していた。一枚削る。言葉を直して、もう一度読む。レイアウトの調整、余計な説明の削除。順番の入れ替えに頭を悩ませる。

    夜のオフィスで、同じ作業を何度も繰り返す。施設の空調かなにかが、がこんと部屋に響く音を立てた。それを聞いて、ふと手が止まる。マウスとタイピングの音が、静寂に吸い込まれていった。他に部屋にはもう、誰もいない。

    ……なんで私、こんなに頑張ってるんだろう。

    どうせ通らないのに。

    私のテーマも、AIだった。でも内容は違う。部長チームは、「AIで教育をどう変えるか」という規模の大きな話をしている。

    私は、「教室にAIをどう置くか」を考えていた。きっかけは、小学校教師になった友人。久しぶりに会ったとき、彼女は言った。

    「わからなくても、聞けない子がいるんだよ。」

    教室では、質問したい子ばかりではない。わからないことがあっても、黙ってしまう子もいる。もちろん、わかっていて手を挙げない子も。

    恥ずかしいとか、周りが気になるとか、理由はいろいろ。目立つのが苦手、ってこともあるだろう。

    「でも先生はさ、三十人を一度に見るじゃない?」

    彼女は笑った。

    「正直、身体一本じゃ足りないよ。」

    だから私は考えた。巨大なAI教育サービスじゃなくていい。まず、ひとつの教室で使えるAIを。小さな実装。そして少しずつの検証。そこから始めてもいいんじゃないか。

    * * *

    プレゼンの前夜、資料を保存して閉じたとき。ふと思い出したのは昔のことだ。今の今まで忘れていたその記憶は、よみがえった途端、ずっと変わらずそばにあったもののように思えた。

    幼稚園の劇。節分の鬼の話で、私は「青鬼」の役だった。先生からは保護者に対して、事前に連絡があった。

    「青鬼役の子には、当日、青い服を着せてください。」

    家で母が言った。

    「そのトレーナー、後ろ前に着たら青になるでしょ。」

    お気に入りの服だった。前にはクマちゃんのプリントがあり、後ろは無地。

    舞台ではクマを背中にやって、前を無地にした方が、たしかに鬼っぽい。母の言い分は、筋が通っていた。

    でも、私は言った。

    「この服はこの着方であってるの!」

    結局、私はクマを前にしたまま舞台に出た。

    劇の途中。主人公の男の子と、太鼓の勝負をする場面があった。その子は太鼓を首から下げて、叩く。

    「鬼よ、ぼくの真似をしてみせよ!」

    ドン。ドドドン。ドン。

    簡単なリズムだった。私は鬼として、その子の前に立つ。真似ならできた。簡単だった。でも、この場面の練習のとき、先生は私にこっそり耳打ちしていた。

    「お話では、鬼は負けなくちゃいけないのよ。」

    叩けるのに。真似できるのに。

    私は本番、わざと下手に叩くしかなかった。

    ドン、ドン。

    「うーん、うまくできない。」

    鬼は負けた。鳴らせた音を、私は鳴らさなかった。

    なぜだろう。腕を組んで負けたセリフを言うそのときの自分の姿を、観客席から眺めるかたちの視点で、私は記憶している。

    * * *

    コンペ当日。会議室には役員数名に部長と、いくつかのチームがいた。

    最初は部長のチームからだった。

    市場規模の分析。海外事例。AI教育の将来性。熟練しており、かつきれいなスライドだった。役員の前でも、すらすらとつっかかることのない口頭発表は、すっと入ってくる。質疑応答のあと、社長が満足気にうなずいた。

    会議室の空気が少し変わる。

    ──ああ、決まりだな。

    そんな雰囲気だった。

    いくつかのチームの発表が終わり、部屋の雰囲気が、わずかに緩む。

    続いて、数名の若手が発表を行った。若手提案のパートの発表は、チームではなく新卒入社のメンバー内から個人で行う。次はいよいよ、私の番だった。

    「まあ一応、聞いておこうか」。感じ取ったのは、そのくらいの空気。

    他の同僚の個人発表は、あまり気負っていないものだった。まあ、若手の名前だけでも覚えてやってください、くらいの。

    でも私は、修論発表以来の緊張感をもって臨んでいた。もともとプレゼンに向いている気質とは言い難い方だ。立ち上がったあと、喉が渇いていることに気づく。第一歩は、声の出し方を思い出すところからだ。

    私は話し始めた。はじめのスライドでは、小学校教師の友人の話をした。教室のこと。アンケートの話。質疑応答の時間を待たずに、役員のひとりが聞いた。

    「何人の先生に調査したの?」

    私は答える。

    「ひとりです。N=1です。」

    会議室で、笑いが起きた。少しだけ話しやすくなる。その後も、私は止まらなかった。

    子どもが質問できないことや、先生が全部を見る余裕がないこと。それらを現場の声として紹介する。

    そして言った。

    「ひとりでも、現場の声には意味があります。私は、まずひとつの教室を変えたいと考えます。」

    巨大なプラットフォームじゃない。子どもが、先生に言いにくい質問を投げられる場所を。小さなAIで声を拾い集めて。先生が、見逃していた声に気づける場所。これが私の、教育現場の問題意識と解決策だった。

    私のスライドは、終盤に届いていた。モニターの画面では、「今後の展望」の文字の周りをくるくると、私の操るレーザーポインタが踊っている。

    「小学生に、企画の原案を考えてもらいたいんです。」

    少しだけざわめきが起き、配布してあった印刷資料のページをめくる音が重なる。

    「AIを教育に活かすにはどうしたらいいか? 子どもたちの声を募るプロジェクト。ワークショップ形式の、小さな社会実装です。」

    そして、次の言葉で、私はスライドを閉じた。

    「実現可能性とコストを勘案して、優れた案は当社のチームと一緒に形にしたいと考えます。……ありがとうございました。」

    太鼓を叩けるのに、叩かなかったあの日の自分を。もう、繰り返したくなかった。

    * * *

    コンペは終わった。資料をまとめ、プロジェクターの電源を落とし、会議室を一通り片づける。

    「よかったけどねえ、あんたの。」

    同僚が言い、私の肩を叩いた。ようやく、私もほっと胸をなでおろした。資料作りをはじめてからの数週間、この発表を終えるまでカレンダーを一体何回見たことだろう。

    「でも部長案だろうね。規模が違うしさ。」
    「だよね。私もそう思う。」

    結果はどうせ見えている。

    私は、チームの作業部屋に戻った。さわさわとみんなが雑談している。ひとつ大きなイベントが終わって、またいつもの通常業務が戻ってくる。そんな境界の時間だった。

    「このあと、役員が結果通知に来るってさ。」
    「若手案が通ることなんてないだろうけど。」
    「まあ、仕方ないよね。」

    私は椅子に座る。不思議と、静かな気持ちだった。青いトレーナーを着て舞台に立ったあの日。わざと適当に叩いた太鼓の音は、どこか濁っていて、重かった。

    でも、今日は違う。私はちゃんと叩いた。自分のリズムで。

    そのとき、作業部屋のドアの外で、足音が止まった。

    コンコン。

    軽やかな、ノックの音が響いた。


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