
君にはわからない【創作】
「君には、わからないよ。」
また、その言葉。
彼にそう言われると、私の次の言葉は居場所を失う。たしかに彼の病気について、私が支えられることには限界があった。
やる気がない。できるのにやらない。
社会からそういう誤解を持たれやすい病気だということは、わかる。そのうえで、一緒にいることを選んだ私にも責任があるということも、わかる。
でも、「君にはわからない」は、どんな拒絶の言葉よりも傷ついたし、堪えた。わかろうとする努力ごと、私を否定する言葉のように聞こえた。
彼が優しい人間だということも、そのせいで苦しんでいることも知っているから余計に。
彼と私をつなぐ最後の綱が、少しずつほつれていくような気持ちは、どうにもやりきれなかった。
* * *
机の上に、数学の黄色チャートがある。本の端はめくれ、いくつかのページには複数の色の付箋。挟んである栞には、好きな画家の絵が描かれていた。
かつて、私は数学に嫌われていると思っていた。成績表を見るたび、「自分はごりごりの文系人間なんだな」と苦笑いを浮かべていた。
でも、大学で彼と出会って、その認識が少しずつ変わっていった。
理系の彼は言った。
「理系の方が就職も有利だとか、文系の上位みたいに扱われるけど、僕はちょっと違うと思っていて。」
思っていて、は彼が思考しながら話すときの口癖だった。いつしか私も、彼に倣ってその言葉を使うようになっていた。
「ふうん。それはどうして?」
「たとえば、人間の感情みたいな、数値化や証明ができない部分を文章にして解き明かそうとするのは、理系にはできない営みだと思うからだよ。」
聞いても、正直よくわからなかった。でも、話を聞く距離は次第に近くなっていった。
中学生レベルの問題から解きなおしてみようと思うようになったのは、そのころだったと思う。最初はほんの気まぐれ。理系の彼の思考の癖や、論理だてて話す言葉を聞いて、なにか、似たような感覚を掴むことができるような気がしたからかもしれない。
自室の机で、本屋で手に取った黄色チャートを広げた。
「この式、Xを消去すると一般式になるんだ。」
元は彼の言葉だっただろうか。私はひとり、そうつぶやいた。
独り言が多くなったのも、彼の影響だったと思う。彼を知ろうとして、わかろうとした結果、彼の癖のいくつかは、私の世界の中に降って少しずつ固まっていった。
音楽を聴きながら、なんて器用なことはできない。かりかりとシャーペンが紙をこする音だけが室内に響いていた。
自分は数学に嫌われていると思っていたけど。
私の方が、勝手に距離をとっていただけだったのかもしれない。
確かに、国語や英語、地歴の方が昔から成績は良かった。でも、あのときから頭の出来が変わったわけでもなんでもないのに、問題は少しずつ解けるようになっていった。
大学を卒業してからも、私と彼の関係は続いた。ふたりとも大学院には進まず、就職を選択した。
* * *
仕事をはじめてお互いばたばたしていた。ようやく、ゆっくり会える時間を作れるようになったころ、彼の見た目は少し変わっていた。
目の下にはクマができているように見えたし、随分と痩せたみたい。話すときには笑っていたけれど、心の底から零れた感情には見えなかった。
体調がすぐれない日が増えたと聞いて、私はなるべく彼との時間を作ろうと思った。彼が勤めるのは私の勤め先よりもずっと有名な会社だったし、収入が良い分、責任のある仕事を任されるプレッシャーがあるのかもしれない。
でも、次に会ったときには、彼は休職することが決まっていた。
彼の病名も、それが精神的な疲労からくるものだろうということも、あとから聞かされた。
ショックだった。どうして、私に相談してくれなかったんだろう。迷惑をかけたくない気持ちはわかる。でも、私の気持ちは知っていたじゃない。
それから、私が本棚から取るのは、好きな画集でも、数学の本でもなく、彼の病気に関するものばかりになった。
わかろうとして本を読んで、ときには仕事を休んで病院に付き添って。会えた日には、ずっと隣に座って。
何日も眠れていないと聞いた日には、私の眠りも浅くなった。自分の生活をなんとか見た目の上では成立させておいて、残りは彼を支えるために使った。
「そんなに無理させると、申し訳ないから。」
彼は何度か、そのようなことを口にした。ありがたいけれど、心苦しい。そう思いつつも、寄り添って受け入れてくれていた。でも、次第に彼の言葉の温度は、少しずつ下がっていった。
「君には、わからないよ。」
会って、話して、なにかを伝えたあとに、彼がその言葉を言う。
それは「もう話すことはない」の合図のように思えた。少し黙ってから、「また来るね」と言って私は帰る。
帰り道、電車の中でいつも考える。
私は、同じ病気になったことはない。いくら寄り添っても、わかりようがない。
病気だから、病気じゃないから。そこで平行線になる。
「君にはわからない」の言葉は、思い出すたびに胸がしめつけられた。病院の空気の匂いと混ざって、息苦しさが肺を満たす。
有休を上司に申請するときの勇気も。見たくない病名なのに、本屋で見つけにいこうとするときの虚しさも。「わからない」のが本当なだけに。彼に悪意がないだけに。
いろいろな想いが相まって、私の気持ちに居場所がなくなってしまう。
彼を断罪しようもなければ、恩着せがましくありたいわけでもない。ただ、共有できないという経験の壁だけがそこにある。
傷つけあっている関係性なら、どんなにか楽だったろう。互いが勝手に傷つき合っているから、余計にたちが悪かった。
* * *
玄関の扉が、ぱたんと音をたてて閉まる。私が、自分のぎりぎりの生活の中に戻った合図だった。カレンダーとスマホのアラームを確認する。ごみを出すのを、次は忘れないようにしないといけない。
机の上の黄色チャートは、長らく開かれていない。画家の栞も、どこかにいってしまって見つからないままだ。
わかりようがない。だけどこのとき、ふと解き始めたころのXの消去のことを思い出した。
病気の人が、「病気じゃない人にわかるわけがない」と思うのは当然だ。彼なりに、戦って、戦って、どうしようもない状況の中で足掻いて、外野から声を掛けられても、それは違う世界の言葉のように聞こえるのかもしれない。
でも、同じ病気じゃないのにわかろうとして寄り添う私の気持ちだって、私以外の誰にもわかりようはない。
ノートを開いて、なんとなく彼の病名をイコールXと置いてみた。でも、本当はXは何でもいいのかもしれない。
親の死でもいい。不妊でもいい。障害でもいい。介護でもいい。戦争でもいい。恋人を亡くしたことでもいい。Xを消すと全部、「経験した側」と「経験していない側」というちっぽけな式に収まる。
しかし、そうすると答えはどのルートをたどっても、次のようになる。
「人は他人の内面を証明できない」。
ノートを閉じて、シャーペンをその辺に転がした。
文系の私に、この問題が解けるのだろうか。
数学なのに証明できない。その事実が、しぼんだ気持ちにもう一度針を刺した。