
二単位の授業【創作】
夏の終わりは、大学生にとって春学期の成績が出る時期だった。俺は、まあ、今年もなんとかなるだろうと思っていた。
これまで、勉強で苦労した記憶はあまりない。かといって、成績が特別いいという意味でもない。中学高校と、授業に出て宿題だけは一応やっていた。そしたら分相応程度の大学に合格していた、という格好だ。
学費も親が払ってくれている。バイト代は自然と趣味と遊びにばかり使うようになった。
おかげで、一年の途中からバイトに力を入れすぎている、という反省はあった。それでもまあ、二年には上がれた。だったら、この先もあと三年、同じように過ごせば卒業できるだろう。
大学に入る前は、単位というものが何なのか、履修登録だの成績評価だの、仕組みがややこしそうで少し身構えていたけれど。一年が終わってしまえば、きっとあとはだいたい同じことの繰り返しだ。
卒業やら就職やら。面倒なことはそのとき考えればいい。
そう思っていた。
* * *
今は大学で発行されるIDさえあれば、オンデマンド配信動画の講義が受講でき、課題のアップロードもオンラインで完結するものが増えている。
ちょうど現地で受けるオンサイト講義から、オンライン講義へと移行している過渡期といったところだ。
履修登録さえ失敗していなければ、この大学では単位修得は難しくない。
オンサイトの授業では、講義の始めにレジュメだけ取りに行っていれば単位をくれる先生がいた。最後の講義だけ出れば、試験に出る範囲を細かく教えてくれる先生もいた。
あとは、オンラインシステムで課題を提出する場合、間に合わなそうなときに使える小技がある。白紙の様式だけを提出期限ぎりぎりに送っておく。そうすると、再提出してくださいという連絡が来るまでの間に、少し時間を稼げる。
悪い先輩に教えてもらったやり方だった。
口を開けて上を向いていれば、単位のほうから勝手に入ってくる。そういう生活に、身を置いていた。
* * *
そんな中で、やってしまった。
春学期の履修登録をひとつ、ミスっていた。
いや、正確には、ミスったことに気づかなかったのだ。
その授業はオンラインで、全部で四本の動画を見ることになっていた。それぞれの動画に課題がひとつずつ設定されており、視聴したあとに課題を作ってアップロードする。
俺は珍しく、それを全部やった。授業の内容に興味があったからだ。
地域の祭りとか、古い町並みとか、そういうものが観光によっていかにして変わっていくのか。観光客を呼ぶために地域が何を残して、何を変えていくのか。そういう話だった。
公園に残された像から、当時の国の政治の意図が垣間見える。そんなちょっとした一例が、印象に残っている。
オンラインの動画受講は気が抜けがちだ。普段なら動画を再生したまま別のことをしていてもおかしくないのに、その授業はちゃんと画面を見た。課題も、提出期限を守って自分なりに書いた。
だから、その後に成績のことを確認したときも、普通に評価されるものだと思っていた。自己評価での成績は「優」、悪くても「良」だろう。それら以外だった場合は、疑義申し立てをしてもいいくらいにはよく書けた。
ところが、履修者の名簿に俺の名前がなかった。
最初は、何かの表示ミスだと思った。大学のシステムは、たまに変なことがある。メンテナンス中でもないのにログインできなかったり、ページ遷移先が表示されなかったり。
何度か見直して、それでもないので、所属学部の学務課に行った。
「この授業なんですけど、動画も全部見て、課題も全部提出してるんですけど……履修者名簿に名前がないみたいで。」
事情を説明すると、担当の人は画面を確認してくれた。
「そうですね。こちらには登録がないですね。」
「でも、課題は提出できてますよ。」
「ええ。でも、履修登録とオンラインのコース登録は別なんですよね。」
それなら、と俺は思った。
コース登録はしているし、授業も全部受けて、課題をやった証拠はある。
「講師の先生が成績評価の対象として受け入れてくれたら、大丈夫ですか?」
「先生のほうで評価対象として認めていただけるのであれば、学務課としては問題ないかと思います。ただ、その前に履修の修正が必要になりますので、明日もう一度確認していただけますか?」
そんな話だった。学務課を出たとき、首の皮一枚つながったような気がした。
その授業は二単位だった。落としても、それだけなら大きな問題ではないかもしれない。
ただ、二年になってから、バイトの都合で意図的に履修登録している単位数を少し減らしていた。さらに今学期、試験の出来があまりよくなかった授業もいくつかある。
だから、余裕があるわけではなかった。ここで二単位を落としたら、少し面倒なことになる。もちろん、秋学期にちゃんと単位を取れば、進級できないほどでもない。
その日の夜、俺は授業の動画を思い返していた。
コース主任の講師の顔は穏やかで、ユーモアを交えて商店街についての説明をしていた。あの先生なら、きっと履修の修正後に、俺の成績評価を認めてくれる。
そんな気がした。
* * *
翌日、一限の講義をさぼって学務課に行った。
「昨日の件なんですけど……。」
担当の人は昨日と同じ、眼鏡の男性職員だった。彼は学籍番号を伝えずとも、俺のことだとすぐにわかってくれた。
「ああ、確認できました。」
そこで少し間があった。相手の表情が少し歪む。
「昨年度、あなたは同等のコースを修了されています。」
「え?」
「昨年度の『地域文化論』です。」
聞いたことのある名前だ。俺の成績表にも載っている。
「今年度からコース名が変更になっていまして、今年の『観光と地域社会』は、昨年度の『地域文化論』と同じ単位科目という扱いになります。」
大学事務の説明は、いつも回りくどい。意味がわかるまで、少しかかった。
「つまり……?」
「重複履修となり、単位修得ができないため、今年度の履修として認めることができません。」
「でも、授業は全部受けていて、課題も……。」
「はい。受講されたこと自体は確認できると思います。ただ、制度上、履修を認めることができません。」
俺の後ろに、学務課へ用がある職員の人が立って待っていた。それでも、しばらく動けなかった。
……終わった。
俺はその場で何か言った気がする。でも、何を言ったのかは覚えていない。
大学の制度としてそうなっているなら、学務の人に何かをしてもらえるわけでもない。
* * *
その日の夜、珍しく母親に電話をした。実家に帰る予定や、送ってもらった野菜のお礼であれば言いやすい。ただ、大学のことを話すのは、なんとなく気恥ずかしかった。
「どうしたの?」
少し話しただけで、心配された。表情も見せていないのに。事情を説明すると、母はしばらく黙っていた。
「お母さん、大学行ってないからよくわからないけど。」
そう前置きしてから、言った。
「留年しても、お金のことなら心配しなくていいから。」
通話を切った後、正直ちょっと泣いた。暗くなったスマホの画面を見ながら、馬鹿みたいに突っ立っていた。
俺はバイト代を、遊びや趣味に使ってばかりだった。「留年したら学費は自分で払いなさいよ」。入学前、母はずっとそう言っていたのに。
先生に成績評価の依頼の連絡をするまでもなく。結局、その授業の単位は取れないことになった。
キャンパス内で、蝉の声がいつの間にか聞こえなくなってからしばらく経つ。成績評価が正式に出る日が近づいていた。
友達に話すと、いろいろ言われた。
「年度の最初に、新旧のカリキュラムの対応表出てたのに見てなかったのかよ。」
「まあ、履修の件は学務にも講師にもどうにもできないだろ。」
「でも講義自体は勉強になったんだろ? だったら意味はあったんじゃない?」
どれも、その通りだった。その通りだから、何も言えなかった。欲しかった言葉は、たぶん別のものだったけど。それも、言っても仕方のないことだった。
意外とお前らも、遊んでるようで、ちゃんと自分のことやってんだな。
ただ、そう思った。
春学期の成績が出た。
例の授業は、どこにもない。履修扱いにすらなっていないのだから当然だ。
いや、正確には、「昨年度に同じ科目の単位が出ている」だ。今年度の授業を受けたことは、仮に成績が出たところで何の意味も持たない。
ただ、ひとつだけ、成績表に見覚えのない「可」があった。
試験がほとんどできなかった授業だった。ろくに講義にも出ておらず、講師の顔と声すら、曖昧な授業。
問題を見たときから、これは駄目だとさじを投げ、脳内のありあわせの言葉で紡いで提出した試験。
それが、可だった。
二単位修得。
あれだけ講義を受けて、課題を作って、ちゃんとやった授業は、評価対象にすらならなかった。それなのに、適当に受けて、試験もほとんどできなかった授業が、二単位に変わった。
必要単位数を再度計算した。後期の授業と合わせて、これならつながる可能性はある。
成績表を閉じる。
次のバイトの出勤日は、明後日だった。
そのとき、翌月のシフトを少し減らしてもらえないか、相談してみようと思った。