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上も、下も【創作】

    財布野紐ゆるみ

    夜勤明けの朝、男はエレベーターの中で壁にもたれていた。点検表はすでに提出してある。異常なし。毎回そう書く。実際、大きな異常に当たったことはほとんどなかった。

    エレベーターは最上階で止まり、しばらくしてから下り始める。

    仕事のうちだ。上に行くのも、下に行くのも。

    エレベーターの停止階は、テナントの力関係みたいに決まっていて、なぜか一番下と一番上ほど、トラブルが多い。

    電気、空調、水回り。決められた箇所を回り、数値を確認し、チェックを入れる。誰かに感謝されることは少なかったが、何も起きなければそれにこしたことはない。

    だが、仕事としては、何か起きて忙しい方が楽だ。何も起きない日は、とにかく長い。その間、ある程度は気を張っている必要がある。

    立ちっぱなしの力作業ほどの激務でもない。機械室と外気との温度差や、しゃがみ作業や中腰作業の中途半端な多さ。そういった、いやがらせ染みた精神的苦痛が、俺の心をすり減らしていく。ある日急には壊れない。じわじわと、壊れないように歪められていく。

    俺は、ビルの設備管理をしている。幸い、昼夜がひっくり返る感覚にはもう身体が慣れた。削られる自律神経や集中力とも、日中に微熱が続くようなだるさとも、そこそこうまく付き合えているつもりだ。

    「異常なし。」

    言い聞かせるように、それだけ声を出す。……あくまで現場の話。俺の方に無理がないかどうかはまた別だ。

    朝日を相手に、片手をあげて終了報告をする。手慣れたもんだ。

    俺には、あまり仕事と休みの感覚の入れ替わりがない。カレンダー上は休みが多く見えるが、その実感もない。休日には、資格の勉強をしていた。今の仕事に関連する資格は、種類が多い。

    テキストを開き、過去問を解く。もう何年も、同じことを繰り返している。ひとつ取れば次、次を取ればまた次。正答率が七割を超えても、現場で起きることはろくに載っていやしない。だが、それが資格というものだ、と割り切っていた。

    しんどいとも、飽きたとも、誰にも言わなかった。言えば楽になる、そんなことをかつての恋人に言われた気もするが、忘れた。

    日々の仕事も。休日の資格取得も。自分が上に行くためなのか、これ以上落ちないためなのか、自分でもわからなくなっていた。

    * * *

    ふと、生きていて胸がざわつく瞬間がある。

    SNSで流れてくる広告。
    「誰でも、はじめれば月百万達成できる!」
    バカじゃないのか。甘ったれるな。誰でもできたら苦労しないだろ。

    動画サイトでおすすめにあがってくる動画。
    「絶望していたニートだったけど、これを目指して挑戦中!」
    何もしてこなかった奴らが、前向きなことを語るんじゃねえ。なめるなよ。

    なぜだろう。わからない。

    わからないけど、胃のあたりがむかむかする感覚。

    今日は、駅の改札を抜けたとき、目に入った新しい広告があった。

    「自分らしく生きる」「今からでも遅くない」といった言葉が並ぶ。具体的なことは何も書いていないのに、なぜか腹がたった。広告でアップになっている優男のその顔に、蹴りの一発でも入れてやりたい気分だった。

    名前のつかない違和感だけがある。置いていかれた、という感じに近いだろうか。

    それでも、俺は何もできない。誰も見ていないところで、広告に怒りをぶつけることにすら躊躇う、自分に一番腹が立っていた。

    * * *

    俺は毎日、建物の中を歩いている。高層階にも、地下にも行く。だが、そのどこにも自分の居場所がない気がしていた。

    腰にぶらさげた鍵束は、どの部屋だって開けられた。ただ、開けた先に自由にできる部屋はひとつもない。

    日中、トイレの前にかけられた「清掃中」のプレート。あれは、清掃員の聖域だ。あれをうらやましく思うと言ったら? きっと他人は俺の正気を疑うだろう。

    廊下と機械室だけを通り過ぎる。エレベーターが停止していれば、歩いて階段を上り下りする。仕事だということは、わかっている。だが、どのような仕事でも人の生活を支えているはずなのに、生活の輪郭に触れることはない。

    それでも試験は受けるつもりだ。やめる理由も、やめていい理由も。探すのが面倒くさくなっていた。

    ある日の点検で、小さな見落としがあった。すぐに大事にはならなかったが、依頼主からはクレームが入った。上司からは、大きな叱責はなかったが、目も合わせずに「気をつけろよ」とだけ言われた。

    いくらやっても、礼は言われない。一度でも失敗すれば、文句は言われる。

    「すみません。」

    俺はそれだけ、言った。

    自分の発したその一言で、胸の中の何かが崩れた。ちゃんとやってきた、という自負が、音を立てないまま、揺らいだ。

    俺は無意識に下を見た。安心したかったからか、理由はわからない。浮かんだのは、SNSの投稿。動画のサムネイル。そして駅の広告の男の顔だった。

    自分より「楽」に見える生き方。前向きな言葉。それらを見下ろした瞬間、自分も一緒に落ちていくような気がした。

    * * *

    駅の広告は、いつの間にか別のものに貼り替えられていた。あの言葉が正しかったのか、間違っていたのか、考える気にもならなかった。

    理解しなくていい。前向きにならなくていい。折り合いなんて、つかなくてもいい。

    上にも行けず、下にも落ちきれず、ただ黙ってその場で食いしばり続けてきた。俺は、自分の気持ちを。ひとつの言葉を。表に出す勇気だけが、最後まで出なかった。

    先月受けた資格試験の結果が、そろそろ出るころだった。自分がそれを待っていたかどうかはわからないが、ふと思い出した。

    エレベーターが一階に着き、扉が開く。男は点検表を手に、また次の場所へ向かった。

    上を見ようが、下を見ようが。俺のやることは変わらない。


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