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吊り革【創作】

    財布野紐ゆるみ

    電車がカーブに入るたび、吊り革はみんな同じ方向に流れる。どれも逆らわず、乗客と同じように。けれど、誰かがつかめば、あれは揺れなくなる。

    細いベルトの先にあるただの輪なのに、人の体重を受け止める。

    俺は、今日あった「ちょっとした事件」を思い出していた。

    * * *

    発端は今朝。スーパーの従業員からの一本の電話だった。

    「あの、御社の酒粕なんですが……。」

    受話器の向こうの女性の声はかすかに震えていて、どこか申し訳なさそうだった。酒粕は、わが社における冬の主力商品だ。声の主は、食品売り場の担当者だという。

    「あるお客様から、強いお申し出がありまして……。」

    受話器を持つ手を少し遠ざけつつ、デスクの資料の山の下からメモ用紙を掘り出す。「強いお申し出」。この言葉だけで、経験上察するところがある。

    詳しく聞くと、客がかす汁を作ったらしい。それを容器に入れたまま店に持ってきて、「不味いから、なんとかしろ」と言ったのだという。

    「毎年買っているのに、今年のは風味がおかしい、と……。売り場から撤収するようにとおっしゃっていて。」

    容器ごと持ってきて、店の人間に食べてみろとでも言ったのだろうか。俺は手の中のペンを持て余し、少し顔をしかめた。売り場から撤収となれば、ただのクレームでは済まない。物流に取引、すべてが動く。

    「調理の仕方とかも、あるのかもしれないのですが……。」

    電話口の女性は、そう付け加えた。店としては、あまり事を荒立てたくないのだろう。客側の問題と察している風にも聞こえる。相手が、両手で受話器を大事そうに持つ姿の想像がついた。

    「お客様が、メーカーの人間を呼べと……。」

    なるほど。

    だが、ロットを確認するまでもなく、同種のクレームは今季きていない。包装破れなどでの、マイナス伝票の依頼はいくつかあったが、味の苦情はなかった。

    どうしたものかと思っていると、隣の席の同僚・高木が言った。

    「すみません。そのお客様に、こちらから連絡します。」

    顔を上げると、彼はいつも通りの調子だった。声も、特に強くない。ただ、珍しいなと思った。普段は、誰かの仕事に口を出すやつじゃない。

    「悪いが、任せて大丈夫か」と聞くと、「ああ」と言った。

    それだけだった。

    正直、助かった。俺の方は、午前中済ませてしまわないといけない、他の取引先との用務があった。

    見慣れた高木の横顔に、少し神妙な目つきが浮かんでいたのが印象的だった。

    * * *

    別の日、昼休みに思い出して聞いてみた。高木は弁当を広げたところだった。悪いと思いつつ声をかける。

    「そういや、この前のクレーム、どうなった?」

    毎朝自分で詰めているという弁当は、配色がきれいに整っていた。高木は持ち上げた箸を少し止める。

    「すぐ電話したよ。」
    「怒ってた?」
    「怒ってた。」

    肩をすくめて言う高木。やっぱりか、と思った。

    「それで?」
    「説明したよ。」

    無言で続きを促すと、高木は少し考えてから言った。

    「店の保存状態に問題がないなら、店に落ち度はないって。それから、分量と調理時間を聞いて、生煮えになってる可能性を指摘した。

     あと……酒粕は酒の副産物だから、毎年味が少し違うのは想定通りだってことも言ったかな。」

    それだけ言うと、また弁当を食べ始めた。

    「聞いてくれた?」

    俺が聞くと、「まあ、聞いてはくれた」と言った。

    それで解決。納得はしないまでも、引き下がらざるをえないところで話は落ちついたということか。

    でも、腹落ちしない部分があった。

    * * * 

    俺は帰りの電車で、吊り革を見ていた。

    電車が再度カーブに入る。輪がさっきとは逆向きに、一斉に流れた。
    誰もつかまっていない。揺れながら、また戻る。

    俺だったら、まあマニュアル通り話すだけだったろうな。製品には問題がないとしつつ、不快にさせた点だけをとにかく謝罪して、無理な要望には応えない。

    クレームには、機械的に決まった対応をするだけ。その方が、心穏やかでいられるからだ。

    次のカーブで、目の前の男が吊り革をつかんだ。流れかけた輪が、途中で止まる。その人の体重を受け止めて、吊り革は揺れない。普段は、ただぶら下がって流されているだけなのに。

    俺はあのとき最後に、高木に聞いた。

    『どうして、クレーム対応代わってくれたんだ?』

    照れたように笑って、あいつは言った。

    『……バイトしてたから。高校んとき、酒蔵で。』

    俺は詳細は聞かず、その言葉のまま受け取って、あらためて礼だけ伝えた。

    目の前の男の掴んだ吊り革が、きゅっと高い音を立てた。

    ああいう役目のものがある。誰もつかまらないときは、周りと同じように揺れている。けれど、誰かが手を伸ばしたときだけ、重さを引き受ける。

    ここからの路線はしばらく直線が続く。吊り革はゆっくりと揺れて、次のカーブを待っていた。

    また誰かの手が、伸びるまで。


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