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無線混線【創作】

    財布野紐ゆるみ

    その建物のエレベータは、いつも音が多い。

    到着を知らせる、ポーンという音。ドアが開くときの、空気を切るような音。誰かの笑い声が、反響して少し大きくなる。スマホの通知音が重なる。

    どれも単体なら耐えられる。でも同時に来ると、彼女の頭の中でうねったあと、突き抜けて通り過ぎていってしまう。

    だから彼女は、イヤホンをつけていた。

    音楽は再生していない。ノイズキャンセリング機能だけをオンにしている。「しんどいもの」が完全に消えてなくなるわけじゃないけれど、世界が少しだけ、遠くなる。

    教室に入る前まで、イヤホンは外さない。声をかけられたときには外して、その人だけに向き合えばいい。

    ただ、それでも、限界はある。

    昼前のエレベータは、だめだった。人数が多すぎて、音の層が分厚くなる。足元がふわ、と浮く感じがして、彼女は途中で降りた。階段に逃げ込んで、壁に手をつく。ゆっくり、自分の呼吸を数える。

    ──色々なものが、混ざらなければいいのに……。

    そう思う。でも、どうすれば混ざらないのかは、分からない。

    * * *

    「ねー。あなた今日、行ける?」

    夕暮れどき、その女はいつも通りの調子で言った。名前はアスカと名乗った。漢字はわからない。彼女が何者かはよくわからないが、赤いパジャマを身に着けていて、なぜか魔法が使える。

    「えっと、今日? 急だな。」

    男は、少し迷った。正直、まだ自分が何をする役なのか分かっていない。「生きづらさを感じている人」を救うバイト、とだけ聞いている。人を救う。その言葉が男の中で少し大げさに響く。

    「予定はないけど。僕、はじめての出勤だよね。一応、この水色のパジャマ用意したけど、これ着たら魔法使えるのかな。」
    「うん。使える使える。ほら飛ぶよ。レツゴー。」

    アスカは窓から、ふうーっと空に溶けるように身体を浮かせた。男は思わず彼女の手をつかむが、その手は無情にもはたき落とされた。

    「つかまなくても、あなたも飛べるから。触らないで。えっち。」
    「ええ……?」

    不名誉な言葉に気持ちはやや濁ったが、男もアスカに続いて窓から外へ出た。不思議と、恐怖はない。自分の意思がはっきりとあるのに、まだ夢の続きを、見ているかのような感覚。

    道行く人たちも、電線にとまる鳥たちも。彼女たちを気にも留めない。それなのに、彼女たちも、それを妙だとも感じていないかのようだった。

    「今回はね、私じゃだめっぽい。でもあなたなら、できるかも。」
    「それはなぜ?」
    「ま、それはいいからさ。ところであなた、名前はなんていうんだっけ。」

    理由は言わなかった。それでも男は、前を向いてうなずいた。特別な覚悟があったわけじゃない。ただ、断るほどの理由もなかった。

    「僕は、ミナト。あらためてよろしく、アスカ。」

    * * *

    駅ビルのエレベータ前で、その「彼女」は立ち尽くしていた。イヤホンをしているのに、肩がこわばっている。視線が定まらない。

    アスカは、ミナトの後ろで立ち止まり、前に出てこない。ミナトは、掛ける言葉を探して戸惑っていた。

    どうしたの、は違うか。
    やっと見つけた、もわざとらしい。
    ヘイカノジョ。これじゃ不審者だ。

    はじめてアスカに会ったときのことを思い出す。「あのとき」のアスカのように。ミナトはイヤホンの彼女に一歩近づいて、小さく指を鳴らす仕草をした。

    パチッ。

    思ったより乾いた音があたりに響いて、彼女がびくっとした。

    「ご、ごめんなさい。驚かせてしまった。」

    すぐに言う。

    彼女はイヤホン越しに、ミナトの方を見た。実に奇妙な視線だった。それもそうだ。水色のパジャマをまとった男が、なぜか目の前で指を鳴らした。それ自体が、不可解な出来事だったろう。

    彼女は、何がなんだか分からない、というような表情を崩さなかった。けれど、おそるおそるイヤホンを外してみせた。

    「あれ? 聞こえない……。周りの、音が。」

    ミナトが指を鳴らしてから、混ざり合っていた音が、彼女の耳に届かなくなっていた。きょろきょろと、あたりを見回す。聞こえなくなったわけではなかった。ただ、遅れていた。音たちが、ひとつずつ、ゆっくりとやってくる。

    不思議だった。周りの人たちは。みんな動いているのに。雑音が、交通整理をはじめたように整列して、順番に耳の中に入ってくる。

    「え……変なの。」

    目を丸くしながらも、彼女の口角は上がっていた。ミナトが、アスカに耳打ちする。

    「これでいいの? 指を鳴らしただけで、何もしてないんだけど。」
    「なんか、気の利いた言葉でもかけてあげなさいよ。」

    そんな、小声のやり取りも、彼女の耳に順番に訪れていた。

    「……音が混ざるの、いやだったんです。」

    彼女は、アスカとミナトの方を見て、言った。

    「音に触れるたび、思考がかき乱されて、焦ってしまって。昔からなんです。私、ちょっと、おかしいんです...…。」

    うつむく彼女に、ミナトは少し考えてから、言った。

    「その、手に持っているイヤホン、Bluetooth接続ですか?」
    「……そう、ですけど。」

    言葉を選びながら続けた。

    「前になにかで読んだんですけど。Bluetoothって、複数のデバイスと接続できるらしいんです。でも、あえてひとつとしか繋がらないように作られてるって。」
    「それは、どうして?」
    「混ざると、聞こえなくなるから、らしいです。」

    それだけだった。聞きかじりの、ちょっとした雑学。説明はそれ以上しなかった。

    彼女の肩が、ほんの少し下がった。イヤホンは手放さない。でも、この場から逃げる気配もない。

    「じゃあ。」

    彼女は、ゆっくり言った。

    「私がひとつしか聞けないのも、仕様なんですかね?」

    ミナトは、うなずいた。気づけばこの瞬間、音の流れは、日常を取り戻していた。複数の音が、一緒に流れる世界が、また彼女を包む。

    エレベータが来て、到着音が鳴る。彼女は一瞬だけ目を閉じて、それから乗った。無理のない呼吸が、彼女に戻ってくる。

    音はそこにあった。でも、不思議と重なる感覚がなかった。

    * * *

    ミナトの家に戻ってから、アスカが言った。

    「あの子、もう大丈夫だわ。お手柄よ。」
    「あれでよかったのかなあ……。」

    アスカはまた、窓から飛び去っていった。それにあわせて、春の装いをした、緑色の風が吹く。

    ミナトは部屋でひとり、あのとき鳴らした自分の指を見ていた。

    接続先は、ひとつ。

    誰しも、なんらかのかたちで世界とつながっている。

    ──けど、それを、選ぶ方法もあるのかもな。

    この日、そんなことを初めて思えた。

    窓の外では、電車がたたんたたんと、小気味のよいリズムで音を運んでいた。



    ※以下は関連作品になります。


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