
二百円のマウスパッド【創作】
私が働いている会社には「人事部」が存在しない。
管理部という名の、総務のような経理のような部署が、そのあたりの業務を広く担っていた。
人数の少ない会社とはいえ、雑務も含めると業務が抱えきれず、最近では両手からこぼれてしまうことも増えていた。
「最近忙しいでしょ? 技術希望の人だけど、事務も手伝ってもらうから。」
そう言われて、履歴書と職務経歴書を手渡された。
私はその瞬間、自分の眉がちょっと歪むのがわかった。
履歴書に貼られた写真が、若干傾いている。
「いつも通り、面談やるから。光月さん一緒に出てくれる? 一緒に仕事してもらうことになると思うからさ。」
それだけ言うと、管理部長は去っていった。
私は、職務経歴書の方にも目を通す。いくつかの会社で、システム管理やソフトウェア開発の実績を積んでいるという記載。
でも、履歴書の曲がった写真に意識が引っ張られる。彼が、何度も転職をしてきたこと。それを現場経験が豊富だとみるか、あるいは……。
* * *
応募者の名は、武井といった。
三十分ほどの面談には、迫るような緊張も特に感じられなかった。
武井は、技術部の業務をメインとすることとし、従業員数の関係で事務も手伝うことに了承した。
彼が会議室から頭を下げて去っていったあと、面談直後に「採用でメール送っといて」と管理部長は言った。即断即決は彼のモットーだ。
技術職志望の彼がぴしっとしたスーツを着込んできた時点で、部長は採用を決めていたのではないかと疑った。うちの技術部には、格好に無頓着な人間も多かったから。
私が上の立場だったら、面接「直後」には連絡をしないと思う。なにがなんでも応募者を採ろうと必死になっているように映るのが、なんとなく嫌だったからだ。
けれど今、私は下の立場だ。「承知しました」以外の言葉はきっと求められていない。
それに、彼の転職のうちの二度は、会社の合併や倒産によるものだと先の面談で判明した。
私は、履歴書の写真だけで彼を色眼鏡で見ていたことに気づき、恥じ入った。写真がちょっとくらい曲がっていても、まっすぐ仕事をしてくれるなら問題ない。
* * *
働き始めてしばらくは、特に問題はなかった。
アカウントの受け渡しや事務内のルールの共有。管理部の機密フォルダへの権限は与えないという方針で、作業を手伝ってもらった。
技術部の連中とも、うまくやっているようだった。
あるとき、「マウスパッドがなくて困る」というので、カタログを渡して、好みのを選んでもらおうとした。
しかし、それがいけなかったかもしれない。
彼が選定したのは、八百円の、特に高価なものだった。
私自身は、必要性を感じないためマウスパッドは使っていない。
二百円のものと八百円のもの。同じページ内の製品を交互に見るが、素材も大きさも、同程度だ。
業務に使う機器やアダプターなら、性能差を優先して高価なものを選ぶのはわかる。事務だって、そのくらいのことは判断できる。けれど、マウスパッドとなると、私にはどうしても必要な差には思えなかった。
念のため、私は聞いた。
「えっと……そんなに高価なものが必要でしょうか?」
「家で使っているのと同じなんです。」
知らないよ。
「技術部の仕事をやっていないと、わからないかもしれません。」
悪気はなかったかもしれないが、私はその言葉に、どこか上からの視点を感じていた。彼はここのところ、ことあるごとに「自分は技術部として雇われている」と主張し、私の意向を拒否することが増えていた。
技術だから事務よりは上。そういった価値観が、彼の中にあったのかもしれない。
しかし同じ技術部の連中は大体みんな、マウスパッドは自前のものか、二百円のものを使っていた。そのことを言おうか迷って、私は言わないことを選んだ。
これもまた、よくなかったのかもしれない。
* * *
帰り道、まだ外は明るかった。
マウスパッドは、両方をカートに入れたまま。ショッピングサイト上で「購入する」をクリックするところまではいけなかった。
職場の近くは、空が高い。
景色ごとの空の表情。その変化が実感できるところが、気に入っていた。
私も、何度か転職している。職場の居心地はどこも大差ないのに、駅から近くて空がきれいというだけで、今の仕事で踏ん張っている。
赤すぎるくらいの夕焼け空を見て、自然と母の経営するマンションを思い出していた。
今、彼女の管理する物件では、外国籍の方の入居を禁止している。
特定の国の入居者について、駐輪の仕方が悪かったり、夜に人を呼んで騒いだりすることはそれまでにもあった。でも、多少のことなら、住んでいる人同士でうまくやっていけばいいと目をつぶっていた。
けれど、ある日、入居者が火を出した。
それ以来、方針が変わったという。
「一度入居させてしまうと、退去させることは難しいから。」
母がそう話す横顔は、刻まれた皺の代わりに、大事なものを失くしたようにも見えていた。
* * *
「これ、もう少しまっすぐ貼ってもらえますか。」
つい、口に出した。手伝ってもらっている立場なのはわかっているが、二度手間になり仕事が増えるようなことは、黙っているわけにもいかない。
指摘したのは、封筒の宛名シールの傾きだった。
ちょっと傾くくらいなら仕方がない。でも、履歴書の写真よりもずっと大きく斜めに傾いていた。「適当にやりました」とシールが私に語りかけて、彼の仕事ぶりを伝えている。
「そんなこと、気にします?」
自分の貼ったものを手に取りながら、武井はそう言った。大型封筒の下端を持ち上げたものだから、上方がだらんとこちらに向いて垂れていた。
「もちろん、まっすぐに貼られていなくても届きます。でも、会社の管理部がどう見られるかを考えると……。」
「でも僕は、光月さんの指揮系統じゃないんでね!」
言い切る前に、武井は私の言葉を遮った。
彼は、私の職歴や年齢は知らないだろう。しかし私は知っている。
この会社では彼は私よりも後輩だし、ついでに私より年下だった。けれどそんなことは関係なく、上司ではない以上は仕事ぶりに口を挟まれたくないということなのだろう。
シールだって履歴書の写真だって、好みの問題だと言われる部分かもしれない。
でも、人事も経理もないうちの会社は、管理部がその看板を背負ってる。気に入っている職場ではないが、ここで私はそのことを大事にしてきたつもりだ。
武井は、その場に封筒を置いて背中を向け、技術のデスクの方へ戻っていった。だんだん、と大きな足音を鳴らして。
そういえば彼は、キーボードの打鍵音も他の社員よりも大きかった。それが業務に必要なことなのかは、私にはわからない。
私は、自分のデスクのモニターに視線を戻した。別タブで開いていたショッピングサイトの画面を再度表示させる。
カートの中身を確認すると、二百円と八百円のマウスパッドがまだあった。
私は八百円のマウスパッドを削除した。
彼がなにか言ってきたら、なんて言ってやろうか。
そんなことを考えながら、二百円のものを選んで、購入をクリックした。
マウスのボタンを押すカチッという音は、いつもより大きく響いた気がした。