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置かれたシチューの箱【創作】

    財布野紐ゆるみ

    キッチン近くのカウンターに置かれた箱には、見慣れた顔が微笑んでいた。それは、奥さんである茜さんの敬愛する、料理家の「榎原めぐみ」さんだ。SNSやメディアでは親しみを込めて「えのちゃん」と呼ばれている。

    プロの技術を、手の届く範囲で家庭料理に落とし込む。そんな、暮らしに馴染むレシピを提供してくれるところを、茜さんは好んでいた。

    僕はネクタイを締めながら、横目でそれを眺めていた。棚からそのパッケージが出されて置かれているということは、今夜はクリームシチューか。

    冷蔵庫の余った野菜も、冷凍庫の鶏肉も片付く。たしか牛乳も残っていたはずだ。これはベストな選択かもしれない。

    そんなことを考えていた。

    さらに、昨日までの雨で今日は冷える見込みだ。仕事から帰れば、奥さんの温かい料理が待っている。そう思えば、気の進まない今日の会議も乗り越えられそうだ。

    茜さんは朝が弱く、僕が家を出る時間は見送りには出てこられないが、彼女の寝顔に向かって僕は小声で行ってきます、と声をかけた。

    * * *

    会議は想定以上に重かったし、長引いた。上司はその上司に詰められて僕に軽く責任をなすりつけるし、時間をかけてプレゼン資料を用意していたからこそ辛くも凌げたが、だいぶ精神がすり減らされた。

    いつもの調子で「ただいま」と声をかけたつもりが、茜さんには聞こえていなかったみたいだ。

    「おかえり! 遅かったやん。でもまだ、ご飯できてないねん。」
    「ああ、いいんだ。それにしても疲れたよ今日は……」

    ちらっとカウンターを見ると、榎原めぐみのシチュー箱はまだそのまま置かれている。ただ、箱の向きだけが変わって、顔はキッチンの茜さんの方を向いていた。調理場ではまな板の上に切り進められた野菜が寝転がっている。

    ふむ。完成までは、まだ時間がかかりそうだ。

    「手伝うよ。なにすればいい?」
    「ええねん! 敦くん、声に覇気がないで。疲れてるんやろ。うちがやるから、任せといてや。」

    ええ子やなあ、と思わず心の中で僕も関西弁がこぼれる。僕は関東出身だったけど。気遣いもあっただろうが、基本的にはお互い、料理をするときにあまり一緒には作業しない。ふたりで立つには狭いし、味付けや食材に口を出すと揉めるからだ。これは、僕らが過去の喧嘩で学んだ教訓だった。

    僕はお礼を言い、シンクに少し残った洗い物だけ片づけ、あとはゆっくりさせてもらうことにした。

    * * *

    そうして出来上がった料理を見て、僕は目を丸くしていたと思う。いや少し飛び出していたかもしれない。

    「でけたでー。」

    茜さんは自信満々の笑みを浮かべていた。

    鍋に完成したのは、鶏じゃがだった。

    想像していたよりも茶色いスープ。花粉で鼻がやられていたのか、和風の香りとともに、違和感が遅れてやってきた。いや、もちろんこれはこれで美味しそうだったが、シチューとパンだと思って胃袋と口は準備を進めていたのに。

    しかし、朝からシチューの箱は出ていたはずだった。あれは棚整理? それとも期限チェック? 考えても深みにはまるばかりだった。

    「あの、つかぬことをうかがうのだけど。」
    「え!? なんなん。」
    「さっきのシチューの箱は……。」
    「ああ、あれ。もう棚になおしたで。出してただけ。『えのちゃん』やったらどう作るかなあ思て、顔見ながら考えててん。」

    肩透かしだった。そしてそれは、謎の残る答え合わせでもあった。

    「敦くんも、疲れてそうやったし。パンよりご飯が好きやろ。」

    そこでふと、思い出す。

    京都の志津屋でパンを買い、鴨川の前で座りながら一緒に食べた記憶。そのときに、パン派かご飯派かの話をした。雨のあとで、川の水流は強めだったけれど、その日のふたりの間には穏やかな時がさざ波のように凪いでいた。

    彼女は、パン派ご飯派いずれにも決めきれないという答えだったけど、僕のためにご飯を選んでくれたのか。

    「でもやっぱり、僕にはよくわかんないなあ。」

    言葉とは裏腹に、自然と笑顔になっていた。それでも僕の中で、榎原めぐみの姿勢と、茜さんの理論とがうまく溶かしきれない。

    「えー。なんで? 今日はシチューの気分とちゃうかってんもん。」

    鶏じゃがをとりわけながら、彼女も嬉しそうに言った。

    そうだった。彼女はいつも本音で話すし、僕とはいつも考え方が違う。そんな目の前の彼女の魅力に惹かれて、僕は一緒にいることを選んだんだった。

    「箱が出ていたから今夜の献立」だなんて、即物的な理解でしかない。冷蔵庫にこれが残っているからこの献立。そうやって、最適なレシピを考える僕とは違って、茜さんにとって料理は「結果」だ。今日という日の手触りを、確認するための。

    「うん。美味しいね。」
    「せやろ? 前んときより味付け上手くできてん。」

    そんな、上機嫌な彼女の顔を見ながら。少し想定外だったけれど、少し遅めの夕食を僕らは楽しんだ。疲れた会議のことは、このころにはすっかり頭から抜けていたと思う。

    「……ほんでちょっと、言いにくいねんけど。」
    「え? どうしたの。」

    尋ねる僕。特に不穏なことはなく、このまま幸せに一日が終わるだけだと思っていたのに、何かあるのだろうか。

    「実は、牛乳の期限が切れてもうてて。……悪いけど、飲んでくれへん?」

    茜さんは、冷蔵庫の整理は上手なのに、食材の期限切れを起こしがちだった。料理に対する考え方を知れば、なるほどな、と妙に腹落ちした。

    レシピの最適化も、少しは必要だよなあ。そんなことを思いつつ、僕のお腹は満足していた。

    牛乳飲むよと言って、僕は苦笑した。



    ※以下は関連作品になります。


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