メインコンテンツへスキップ
見出し画像

貼り合わせ石【創作】

    財布野紐ゆるみ

    石に囲まれた静かな町に、その館は佇んでいた。近郊の鉱山の権利を有し、宝石を掘り当てて富を築いた一家がそこに住んでいた。

    館の廊下は、いつも静かだった。

    磨き上げられた床には厚手の絨毯が敷かれ、足音を吸う。また壁にかけられた絵画の女性は、少年を見下ろすように沈黙している。

    その女性の首元には大きな青い宝石が輝いていた。その美しさは、この場所で生まれ、この場所で育てられてきた少年の「正しさ」を象徴しているかのようだった。

    「坊ちゃんは、よくできたお子です。」

    館の使用人はみな、一様に口を揃えた。

    褒められることに理由はいらなかった。言葉は与えられるもので、選ぶものではなかったからだ。

    ある日、父親が言った。

    「そろそろ、学校に通いなさい。」

    少年は首を傾げた。

    「どうして?」
    「無論、学ぶためだ。」
    「もう知ってることばかりだよ。」

    父は少しだけ眉をひそめたが、その場ではそれ以上は言わなかった。代わりに家庭教師の時間が増え、本は積み上がり、少年の「できること」や「分かること」は確実に増えていった。

    だが、少年は外へ出なかった。

    学校に通いはじめたころに、金持ちの家だからといじられ、からかわれたこと。無論それだけが、理由ではなかった。

    そして、出なかったというよりは──出る必要がなくなっていった、が正しいかもしれない。

    「それ」は、鉱山から回収された数多の石の中から、発見されたものだった。たまたま見つけた。運がよかった、としか言えない偶然。

    灰色で、手のひらに収まるほどの大きさ。何の変哲もない石に見えたが、触れた瞬間、少年は気づいた。

    自分の中の曖昧な考えが、すべて言葉になる。しかも、紙に書き起こしたとき、整った文章として現れる。

    試しに問いかけてみた。

    「僕は、これからどうすればいい?」

    石は、答えた。

    「やりたいようにやればよいのです。もしすでにできることや、する必要のないことは、しなければよいのです。」

    否定せず、迷いを取り除き、もっとも「正しい」と思われる選択を示す言葉だった。

    心地よかった。何かを考えるたびに、石に触れる。書く。読む。納得する。迷いは消え、選択は速くなり、失敗は減っていった。

    やがて、石なしでは考えられなくなった。

    学校に行かないか、とまた父に声をかけられたが、少年はこのときも反論した。

    「僕が学校に行って、誰が得をするの? 時間は有限なので、必要ない行動はとるべきではないと思う。それに、僕はひとりで学んだ方が早い。集団に合わせて進む教育は、非効率でしかないよ。」

    父親を言い負かしたこの言葉ももちろん、石の知恵によるものだった。父親はついに、学校について少年に何も言わなくなった。

    * * *

    「坊ちゃん、それは──。」

    唯一、異を唱えたのは、年老いた側近だった。少年が石に触って文章を書いているところを、彼に見られてしまったのだ。

    「人は、言葉を選ぶ過程で学びます。関係も、合意も、すぐに正解が出るものではありません。」
    「でも、この石は間違えない。」
    「間違えないことと、正しいことは違います。」

    少年は、少しだけ不機嫌になった。

    「じゃあ、お前は間違えないの?」

    老人は答えなかった。ただ、代わりの言葉を探した。

    「……坊ちゃんは、お勉強はとてもおできになります。しかし、学校に行かれていないことで、学べていない部分があると思います。……なんだとお思いですか。」
    「……。」

    少年は、石に手を伸ばしたが、触れなかった。老人の問いに対して、自分の中から言葉は出てこなかった。老人は諭すように、やさしい口調で続けた。

    「それはたとえば、自分ができる人間だという驕りを捨てた、『自分の未熟さを前提にする姿勢』。たとえば、自分のことばかりではなく、『他人の立場を想像する力』。

    ──そして……答えを決めたうえで争うのではなく、相手と対話をして『折衷案を作る力』です。」

    少年は黙っていた。言葉の意味は分かる。しかし、耳には入ってきても、頭には入ってこなかった。自分に歯向かう者は、彼にとっては、敵でしかなかった。

    「……坊ちゃんならご存じでしょう。宝石にも、『貼り合わせ石』というものがございます。異なる石を重ね、ひとつに見せる。純粋ではないと嫌う方もおりますが、それでも、美しく輝くものは確かに存在します。

    それと同じで、人の関係も──。」

    少年は、老人の言葉を遮るように、怒鳴った。

    「うるさい! お説教するな。お前なんて、父さんに言いつけて、クビにしてやる!」

    少年は、「だめだ」「できていない」といった否定の言葉は、もう長らく耳にしていなかった。反論を受けて、完全に頭に血がのぼってしまった。

    老人は静かに目をつむり、頭を下げた。数日後、彼は長年勤めた館から、姿を消した。

    少年は困らなかった。石があるからだ。

    依然として、学校にも行かなかった。

    だが、書物は読み尽くし、論理は洗練され、議論で負けることもなかった。気に入らないことがあれば、石に問い、文章にし、それを見せれば大人たちは納得した。彼の後ろ盾は、ますます強くなっていった。

    すべては順調だった。

    あの日までは。

    * * *

    庭の奥、鉱山から運び出された石が無造作に積まれた広場だった。少年は、ポケットに入れた石に手を触れながら、歩いて石と対話をしていた。

    突然、じゃりっと靴の裏が滑る音がした。このとき、しりもちをつかないよう咄嗟にポケットから手を出したのがいけなかった。

    気づくと少年の両の手に、石はなかった。落としたときの音は小さく、少年の耳ではとらえられなかった。体勢を崩した次の瞬間にはもう、どれがそれだったのか分からなくなっていた。

    あたりには、似たような灰色の石が、いくつも、いくつも。

    「……どこだ……。」

    少年はしゃがみ込み、手当たり次第に拾い上げた。違う。これでもない。これでもない。形を思い出そうとする。しかし、何の気なしに手に取っていたものだ。

    運び出されたこれらの石は、明日にはもう別の場所へ輸送されてしまう。いや、その前に、もう数時間後には日が沈んでこの場所は真っ暗闇になり、石探しどころではなくなる。

    指先が汚れていく。呼吸が荒くなる。膝は常にごつごつした石が当たって、ずっといやな痛みが続いていた。

    そのとき、背後から声がした。

    「おーい。」

    振り向くと、見覚えのある顔があった。学校で、何度か声をかけてきた少年だった。

    「ずっと来てないだろ。お前、大丈夫かよ?」

    少年は答えなかった。視線は石に落ちたままだ。

    「何してんだ? 探し物かなんかか?」
    「……。」
    「よければ、手伝おうか。」

    その一言が、妙に耳に障った。違う。今はそれどころじゃない。早く見つけないと。考えられない。決められない。何も──。

    「うるさい!」

    気づいたときには、叫んでいた。

    静寂が落ちた。

    相手の少年は、少しだけ驚いた顔をして、それから何も言わずに立ち去った。

    足音が遠ざかる。残ったのは、多数の石と、自分だけ。

    しばらくして、少年は立ち上がった。手の中には、どれでもない石がひとつ。

    胸の奥が、ざわついていた。

    ──何を言えばよかったのだろう。

    考えようとして、止まる。言葉が出てこない。

    石がないから? いや、違う。

    そもそも、自分は──言葉を、選んだことがなかった。さっきの場面で、どうすればよかったのか。どう言えばよかったのか。

    分からない。

    分からないことが、こんなにも重いとは知らなかった。

    石が見つからない、そんなことよりも、ずっと……。

    砂ぼこりの混じった風が、少年の顔をなめるように通り過ぎていく。少年はただ、その場に立ち尽くしていた。無数の石の中で、初めて自分の心を探すように。

    さっき、自ら遠ざけた相手のことを、少年は考えていた。その表情を思い起こすことなど、たやすいはずだ。

    けれど、うまく顔を思い出すこともできなかった。


    あなたへのおすすめ