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境を越えられないもの【創作】

    財布野紐ゆるみ

    国境とは、単純な線ではなく、判断でできている。そしてその境には「越えてよいもの」と、「越えてはならないもの」がある。


    バルグラドという国に、一組の兄妹があった。

    長年身を置いた国ではあったが、そこでの想い出は、つらく苦しいものが多かった。父を失ってからというもの、兄妹にはバルグラドに頼れるあてがどこにもなかった。

    そして兄妹は数年前、遠路はるばるエルネア国へ、職を求めてやってきた。言語の壁をふたりで乗り越え、比較的平和な場所を見つけ、ささやかながら、ようやく安定した生活を手に入れた。

    祖国バルグラドは今や、思いを馳せる場所ではなくなっていた。


    エルネアの、あたたかい季節の風が人々を包むころ。夕食どき、あらたまったように妹は言葉をつむいだ。

    「会わせたい人がいるの。」

    それは意外ではなかった。ここエルネアで、妹を理解してくれる「いい人」がいるだろうことは、彼女の最近増えた笑顔からも容易に想像がついた。

    兄にとっては、胸を通り過ぎる寂しさよりも、喜びの方が一段勝っていた。幼いころから母もおらず、寒く、ひもじいバルグラドでの生活を送っていたころ。妹には、自由にわがままを言うことすら、させてやれなかった。

    「よかったな。お前が選んだ相手なら、俺は何も心配ないよ。」

    涙は流さなかったが、声はかすれていた。その言葉にほっとしたような妹の顔に、兄の胸が少し、締め付けられた。


    妹とそのパートナーとの恋愛は、国境を越えたものだった。肌や瞳の色は関係ない。互いに、人としての生き方を見つめあえるような関係性だった。しかしあるとき、エルネアの厳しい制度が、彼女らの間に立ちふさがることになる。

    「婚姻承認証が必要です。こちらが、様式になります。」

    エルネアの役人の言葉が、兄妹の頭からこびりついて離れない。

    妹は、エルネア人と結婚する。だがその婚姻を、バルグラド側で正式に記録するには、エルネア政府が発行する婚姻承認証の原本を、バルグラドの役所へ届け出る手続きがどうしても必要だという。

    バルグラドでは、国外で成立した婚姻であっても、自国の記録に載らなければ「成立したもの」とは扱わなかった。そしてエルネアでも、その記録が確認されるまでは、婚姻は暫定的な扱いにとどまるとのことだ。

    婚姻承認証は、本来なら国の中だけで完結するはずの書類だった。郵送は不可。写しも無効。その原本を、所定の役所に直接届ける以外、方法はなかった。

    「届ければいいだけなら、俺が帰国して持っていけばいいだけじゃないか。お前は、結婚式の準備があるだろう。兄ちゃんに、任せておけ。」

    「だめよ!」

    妹は険しい顔つきで言った。

    「今は特に、バルグラドへ戻るのは危険よ。隣国への侵攻を企てているという噂もあるし、エルネアも強く警戒しているわ。

    職場のお友達も言っていた。バルグラドからの、一切の入国を制限しようとする動きもあるって。一度行ったら、もう戻れない可能性だってあるわ。私は、そんなのいやよ!」

    そして、顔をそらして妹は続けた。

    「仕方ないわよ。制度上の結婚はできなくても、私はあの人と、一緒にいること自体はできるんだもの。それだけで、幸せだわ……。」

    しかし、兄は納得がいかなかった。妹の横顔は、バルグラドで、欲しいものを、食べたいものを我慢していたときの、そのままのものだった。

    認められなければ、公式の場で夫婦と名乗ることも、表立って式を挙げることもできない。もし子を授かっても、正式な夫婦の間の子ではなくなるのだ。

    妹に与えてあげたかった幸せは、バルグラドだけでなく、この安全であるはずの国、エルネアでも認めてやれないというのか……。

    婚姻に関わる「紙」は重かった。薄いのに、角は尖っていて、触れると傷ついてしまいそうだった。

    「紙は恋よりも重く、誓いよりも疑われる」……これは、エルネア国でしばしば使用されることわざだ。国の厳格な制度を、そのまま体現したかのような表現。

    国外へ送ることは禁じられ、外交袋にも入らない。ただし——人が自らの身に抱いて運ぶことだけは、黙認されていた。

    兄は、その紙を懐に入れて、国境へ向かった。
    妹には、黙って。


    しかし、国境をまたぐ直前、兄は捕らえられた。

    鉄の扉の向こう、バルグラドの入国管理局の部屋は静まり返っていた。机の向こうに、管理局長が座っている。

    「入国目的を述べろ。」
    「……書類を届けに来ました。妹の、エルネアでの結婚の許可をいただくためにです。」

    管理局長は眉をひそめた。

    「それだけか?」
    「それだけです。」

    兄は、これまでの経緯をかいつまんで説明した。同情をひこうというのではない。ただ、目的と意志だけを、淡々と告げた。

    「……事情はわかった。しかし、バルグラドの今の情勢は知っているな。一度入国すれば、規制の厳しいエルネアへは、短くとも数年、下手をすれば一生戻れんぞ。」
    「かまいません。」
    「妹の結婚式には出られなくなるが、いいのか。」

    少し前に見た、エルネアの入国審査官の制服を思い出す。冬でも冷たさを感じさせない、淡い砂色の不思議な布地。役所での、石畳の感触が胸に戻る。

    兄は、自分に言い聞かせるように。妹の顔を思い出さないようにして、大きな声を震わせて、言った。

    「入国を、お願いします。この書類を届けることさえできれば、俺はどうなってもかまいません。」

    沈黙が落ちた。

    管理局長は、机の上の規定集に視線を落とした。その厚みを、誰よりも知っている男だった。息を吸う音が部屋に流れる。

    「そんなことが、認められるか!!」

    声を荒げ、部下に向き直る。はっとして、兄は顔をあげた。

    「この者は、危険人物だ。バルグラド人だが、エルネアのスパイの可能性がある。」

    部下は一瞬、言葉を選んだ。

    「……牢に入れますか?」

    管理局長は首を振った。

    「いや。私の判断で、この規定を適用する。」

    彼は、条文の一節を正確に口にした。

    『疑惑のある書簡や情報の持ち込み未遂は、入国を認めず、強制送還とする』

    それは、ただ冷たい解釈だった。それ以外に、表現しようがないような。

    管理局長は、ほんの一瞬だけ規定集から目を逸らした。兄のそばを通り過ぎる際、足を止める。誰にも聞こえぬほど低く、しかし確かな声で言った。

    「この書類は、私が役所に届けてやる。……これは職務だ。」

    一拍、置いて、続けた。

    「兄が妹の式に出ないなど、絶対に認めない。」

    兄は、何も言えなかった。思考が回らず、ただその場に、居つくしていた。
    振り向いて、管理局長は部下に声をかけた。

    「おい! こいつを、エルネア行きの列車に、即刻乗せろ。」

    兄は「危険人物」として国境を戻された。彼が、バルグラドの国境を越えることはなかった。懐にあった紙は、管理局長の手に残った。


    数日後、役所の記録に、「婚姻」の文字が加えられた。バルグラド側の提出者欄には、役職名だけが記されている。

    管理局長は、変わらぬ席で規定集をめくり続けた。一行も削られていない。だが、彼は知っていた。

    規定は、読むものではない。使う者の背中に、解釈が刻まれるものだ。

    紙の書類も、入国しようとした男も。越境として記録されることは、なかった。だが、その紙と人物をめぐって、ひとりの役人が、自分の判断で、ほんの一行を曲げた。

    それだけで、世界は少しだけ壊れずに済んだ。


    一年後。エルネアで、ある一組の男女の結婚式が執り行われた。花嫁は式の最後に、その視線を前でも後ろでもない場所で一瞬落とした。そこに立つ人間を見て、肩の力が抜けるのを感じながら、心からの笑顔を返した。


    直後、バルグラドでは、大きな争いが勃発する。
    エルネアでも、新聞の一面で大々的に、そのことが報じられていた。

    兄はそれを見て、目をつむり、ひざまずいて胸に手を当てた。祖国で、敬意を表すときだけ取られる、祈りの姿勢だった。


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