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ベルガモット・スモーク【創作】

    財布野紐ゆるみ

    深夜、ふと目が覚めた。

    窓の隙間から月明かりが差し込む中、部屋には静かにアロマキャンドルの香りが漂っている。ベルガモットとラベンダーを混ぜた、彼女の一番のお気に入りだ。ほんのり甘くて、でもどこかスモーキーな後味が残る、落ち着く香り。

    目覚まし時計は午前2時を指していた。寝たのはたしか10時。寝足りているはずなのに、何かに起こされた気がする。

    寝返りを打った瞬間、その「違和感」が、ふいに喉元にまでせり上がってきた。

    キャンドルに火を点けた覚えがない。

    今日の夜は疲れていて、シャワーを浴びたあとすぐにベッドに潜り込んだ。キャンドルなんて点ける余裕はなかったはずだ。

    なのに、今──。

    部屋には明らかに、「灯した後の匂い」が、漂っている。

    思わず体を起こし、リビングを覗く。キャンドルの芯は黒く、わずかに煙が立っている。最近の芯はすすが出にくいはずなのに、白く長く、煙だけが静かに揺れていた。

    嫌な汗が背中を流れる。

    鍵は閉めた。チェーンもした。窓は? すべてロックされている。では、なぜ──?

    誰かが、この部屋にいた?

    いや、そんなはずはない。気のせいだ。気のせいであってほしい。

    鏡に映った自分の瞳が、どこか空洞めいて見え、背筋に冷たいものが走る。

    そこで玄関のドアに目をやると、彼のネクタイが落ちていた。

    数週間前に別れた元恋人のものだ。喧嘩別れではなかった。彼が一方的に「もう無理だ」と言い残して去っていった。着信拒否、SNSもブロック、会社も退職して、まるでこの世から消えたかのように。

    彼は、いつもそうだった。
    私の言葉の裏にある気持ちに気づかない。
    目を合わせても、何を考えているか伝わらない。
    鈍い人だと、ずっと思っていた。

    ──最後に彼を見たのは、いつだっただろう?
    駅前? この部屋? 思い出そうとするほど、記憶は霧散していく。

    彼女はそのとき、泣かなかった。ただ、じっとネクタイを見つめていた。

    警察に通報しようか。それとも、証拠を確保するべきか。
    いや、証拠って──何の?

    ふと、彼女の手がポケットの中で何かに触れる。

    スマートフォンではない。小さな鍵。ロッカーの鍵。

    その鍵で開くのは、押し入れの中にある、黒い木箱。

    カチ、と音を立てて開けると、中には、整然と並べられた小瓶。アロマオイルの瓶。そして、細く巻かれた何本ものネクタイと、時計、財布のチェーン、男性用の香水……。

    一本のネクタイには、固くてほどけない結び目が残っていた。
    時計の裏には、爪で引っかいたような細い傷跡が刻まれている。
    小瓶のいくつかには、乾ききらない黒い染みがこびりついていた。

    なぜ、箱の中に彼のものがあるのか、考えようとすると意識が霞む。
    しかし、それらを見つめているうち、胸の奥で何かがかすかにごとりと動いた。

    忘れていた……いや、忘れたいと思っていた記憶が、煙のように立ちのぼる。

    押し入れの中に畳まれるように置かれた、大きな黒いスーツケース。中身が空であることに、思わず安堵した。

    「ああ……鈍いのは結局、私だったみたい。」

    彼女は微笑んだ。

    「もう、とっくにここにいたんだよね。」

    キャンドルに再び火が灯る。煙がゆらりと立ち昇る。

    部屋の隅には、誰にも見えない男の影──。
    いや、気配の残り香が、まだそこにあった。

    彼女はうっとりと目を閉じ、煙の中で、彼の名前を口にした。

    「今夜も、いい香り...…」

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