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かつて、私だったもの【創作】

    財布野紐ゆるみ

    口腔内の左上、奥から二番目。

    今は部分入れ歯になっているそこを、ときどき舌でなぞる。歯の部分はうまく真似できていても、支えの金属部分はやはり人工的で、異質に感じられた。

    そこにはかつて、金歯の被せ物を入れていた。しかしそれも、もう数年前に外されている。

    * * *

    金歯にする前。自分の歯だったころを思い出す。

    強い痛みがあった。

    神経を取ると、歯の寿命は短くなりますよ。

    そう言われた気がする。たしか、半分くらいになる、と。

    迷った結果、それでも神経を取ってもらった。痛みを失くすことと引き換えに、代償をひとつ支払った。

    支払って、自分の一部を失った。

    入ったあとの、冷たい器具の感触も覚えている。それでも、入ってしまえば日常だった。硬くて、ちょっとだけ安心する重さ。

    * * *

    けれど、それも失われる日が来た。

    歯を磨いていても、メンテナンスに欠かさず通っていても。寿命と言うものは来るらしい。

    歯根のトラブルで、もう被せ物をすることは難しい、と聞かされた。どこかその言葉は、軽く聞こえていた。

    保険適用の部分入れ歯を作ることに決めたあと、あっという間に抜歯は終わった。

    何枚も口内の写真を撮られた。そのときの私の気持ちは、さながら旬の過ぎたアイドルのようだったかもしれない。

    歯科医は「記念に持って帰りますか」と軽く言った。マスクの向こう側の表情が読めず、冗談なのか、慣習なのかは分からなかったが、私はうなずいた。

    そんなわけで金歯は、治療が終わったあと、小さなプラスチックケースに入れて渡された。

    それは、歯のかたちを模したケースだった。なんとなく、牛がステーキを食べようとしている、レストランの看板を思い出した。

    開けると、ケースの中で金歯は、濡れたまま光っていた。この十年間、確かに自分の身体の一部だったものだ。

    口の中から消えても、私は私のままだった。

    私だったものは、しばらく引き出しの奥にしまわれた。

    * * *

    先日、実家で親と話していたとき、父が言った。

    「最近、金の値段がまた上がってるらしいな。」

    テレビでは、金の延べ棒や相場のグラフが映っていた。

    「ふうん。」

    かつて私がピアスを開けたいと言ったときの、父の言葉を思い出す。

    ──親からもらった大事な身体を、そんなふうに傷つけるもんじゃない。

    あのときは、意味が分からなかった。今も、完全に分かっているわけじゃない。

    でも、その言葉と一緒に、引き出しの奥のケースが思い浮かんだ。

    「あれも、金だよな……。」

    そう思った自分に、少し驚いた。その問いの答えは、とっくに分かっているつもりだったのに。

    * * *

    買取店では、名前を聞かれるより先に、重さが測られた。小さな皿の上に置かれた金歯は、もう、歯ではなかった。

    グラム。純度。相場。

    店員は丁寧で、親切だった。
    「今、ちょうどいい時期ですよ」と言った。

    店員は、声には温もりがあったが、精密さを求められる価格の確認作業を、ただ機械的にこなしていた。

    「それ」は、現金になった。

    受け取ったとき、私はそれが、何の代金なのかを考えないようにした。考えれば考えるほど、うまく言葉にできなかったから。

    あれは医療現場から、体内へ。そのあとは、買取店から精錬業者へでも流れてゆくのだろうか。

    * * *

    数日後、私は大型ショッピングモールを歩いていた。

    特に目的はなかった。ただの、用事のついでだった。

    アクセサリー売り場の前で、足が少しだけ遅くなる。ガラスケースの中で、金色のものたちが整列している。

    指輪、ネックレス、ピアス。ブランド名やブライダルの文字がきらきらと踊る。隣では、外国語が聞こえた。中国語だったと思う。

    若いカップルが、楽しそうにショーケースを覗いていた。

    「きれい!」
    「これがいいよ。」

    店員が笑顔でカップルに話しかける。内容は聞き取れなかった。

    誰かの首元で、指先で。完成された金。もしかして誰かの身体の一部だったかもしれない、素材。

    私は、立ち止まらずに通り過ぎた。あの金歯は、もう私のものではない。

    そのことをようやく納得した気がした。


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