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これで進めます【創作】

    財布野紐ゆるみ

    その仕事に向いていないことに気づいたのは、退職後だった。

    「結果がすべて」という言葉を真正面から叩きつけて、社員のモチベーションコントロールを図るような会社。

    過程を褒められたことは一度もない。なぜそうしたのか、どう工夫したのか。そんなものはどうでもよくて、最後の数字だけが評価にそのまま直結していた。

    一度だけ、同じ職でも楽しかった現場があった。

    忙しい時間帯だけ、俺はマニュアルの順番を変えていた。本来は確認を取ってから回す工程を、先に通していた。あとで帳尻が合うことを、現場の全員が分かっていたからだ。

    もちろん怒られた。

    だが、その時間帯だけは、客も作業者も詰まらなかった。

    あれだけは、今でも少し思い出す。

    * * *

    身体を壊して会社を辞めてから、俺は職業訓練校に通うことにした。再スタート、という言葉がパンフレットに書いてある。背中を押すには、頼りないフォントだった。

    同じ教室の隣の席に、変なおじさんがいた。

    年は六十前くらい。ノートは取る。出欠もきちんと取る。でも、試験の点数に別に一喜一憂しない。昼休みに求人票も見ない。

    いつも、コーヒーを飲んでいた。

    ある日、講師がメール作成の課題を出した。シチュエーションを与えられ、社内連絡を想定して指定の形式で送る、というものだった。

    件名の書き方も、本文の型も決まっている。既定の様式の中で、ビジネスマナーや伝え方を自分なりにアレンジしてみろということなのだろう。

    提出されたおじさんのメールは、全部違っていた。

    件名は「これで進めます」。本文には、なぜこの方法がいいと思ったかがくどくどと書かれてあった。

    ただ、読めば内容自体は分かった。

    どの役割の人が何をするのか。どこで詰まりそうか。代替案はあるのか。必要な情報は、一応全部入っている。

    ただ、それらが全部ひとつの塊として流し込まれていた。読む側がそれを整理できることを前提にした文章だった。

    講師が、呆れ顔で言った。

    「指示通りに書いてください。」

    おじさんは、少し考えてから言った。

    「でも、こっちの方が伝わると思ったんですけど。」

    案の定、怒られていた。

    おじさんは「ああ、そうか」と言って、次は指示通りに書いた。

    でも次の課題ではまたやっぱり、講師の指示内容とまるっきり違うか、大幅に違う。

    あれで、わざとではないらしい。態度が毎回、はじめて指摘されたような驚きの表情とリアクション。かといって、演技派にも見えなかった。

    * * *

    昼休み、隣の席でおじさんがコーヒーを飲んでいた。求人票の棚の前には相変わらず人が集まっている。

    自分は、さっき取ってきた求人票を一枚ずつ見ていた。熱心にとはいかないまでも、適当な飛ばし読みをしつつ、大事なものを見逃したくはなかった。

    金は命だ……。存在するだけで金は要る。

    退職手当が途切れれば、預金残高は不可逆的に減っていく。その心許なさには、働く自分を想像したときとはまた違った息苦しさがあった。

    ふと、そばにいたおじさんに、聞いた。

    「求人票、見ないんですか。」
    「急いでないから。」

    おじさんは言った。

    「もう働かなくていいんですよ。」

    コーヒーを一口飲む。

    「まあ、ひとり食ってく分くらいは。」
    「……株ですか。」
    「そんなもんです。たまたまですが。」

    なるほどな。

    必死にならなくても、生きていける人間がいる。そういう人間を、俺は少し苦手だった。羨みがなかったといえば、嘘になるだろう。

    少し迷ってから、聞いた。

    「じゃあ、なんでここに?」

    おじさんはすぐには答えなかった。カップを机に置いて、少し考える。

    「働かなくていい、って……」

    そこで言葉を探す。

    「何もしなくていい、って意味じゃなかったから。」

    それだけ言った。

    仕事を辞めた直後、だっただろうか。平日の昼間にスーパーへ行ったとき、周りには、作業着の客が多かった。会計時に「ポイントカードはお持ちですか」と尋ねる店員に、俺は視線を合わせられなかった。

    居心地の悪さだけが残っていた。そんなふうに店を出たことを覚えている。俺は働かなくなったことで、なにかを失ったのだろうか。

    * * *

    午後の授業が始まるチャイムが鳴る。

    おじさんはノートを開く。相変わらず、きれいではない字で書く。課題では、きっとこれからも、講師の言うことは聞かないのだろう。

    自分は手元の求人票をもう一枚めくる。さっきまで感じていた羨ましさは、もうなかった。

    その人の生活は、自分がなりたい未来ではなかった。

    でも。

    レールから落ちた過去を否定するものでもなかった。

    窓の外は、誰にとっても、平日の昼間だった。


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