
余人【創作】
封筒から出した書類を、手に取る。見る場所は大体決まっていた。
日付。件名。そして、金額の数字。
私の仕事は、見つからないでほしいものを探すことだ。違っているたび、摂取するカフェインの量がほんの少し増える。
私はある数字のところを目で捉えたまま。付箋を一枚、書類に貼った。
個人事業主である本多さんの書類は、とにかく間違いが多かった。
私は最初、気づかずにそのまま経理課へ回した。そのとき違ったのは、請求書の数字だった。担当者からは、丁寧に苦言を呈された。
仕事を増やさないでほしい、という気持ちはわかる。しかし電話を取っている時点で、こちらも同じ残業組ではあったのだが。
その次に見つけたのは、一か月後。違っていたのは住所だった。
会社と本多さんが業務委託契約を結んだとき、振込先の登録のために必要だった情報。しかしいつの間にか彼は引っ越していて、そのことをこちらの会社に知らせていなかった。
私は急いで担当係へ電話をして、書類の期日までに登録変更を間に合わせてもらえるよう頼んだ。
月ごとの請求書も、数字が違っているだけならまだ可愛いほうで、たまに期日までに送られてこないこともあった。
その場合はデータで先に経理課へ送付し、原本はあとから速達で送ってもらうよう本多さんに依頼した。
たぶん、事務手続きが苦手なのだろう。
報告書の添付漏れはしょっちゅうだったし、年をまたぐと、当然のように前年の表記のまま書類を送ってきた。
そのたびに私は、本多さんにメールをした。
「お手数ですが、こちら修正をお願いいたします。」
「住所について、現在のものをご教示ください。」
「添付が確認できませんでしたので、再送をお願いいたします。」
文面はいつも丁寧だった。そこに私の表情や心情が滲まないよう、送る前に必ず推敲していた。
ちょっとした書類だけで、これだけの間違いがある。この人にちゃんと仕事が務まっているのかしら、とさえ思っていた。
システム課にまた封筒が届いていた。そこには、本多さんの名前があった。
彼からの書類を手に取るたび、私は間違いがある前提で動いた。不備の指摘や、他の係との連携を少しでも素早くできるように。
マグカップにはまだコーヒーが少し残っていた。頭痛の原因が、カフェインにあるのか、その書類にあるのかはわからなかった。
* * *
本多さんは、リモート業務だった。システム課の端の席でずっと点いているノートPC。そこにVPNでつないで、なにやら作業をしていた。
私がセットアップしたデバイスで、たまにメールが来て再起動を促された。あの機械が、私にとっての本多さんの実体だった。
最近は、電源が落ちていた。アカウントは休止状態。理由は、業務委託契約が昨年度末で終了したためだった。
封筒が届かなくなって、しばらく経つ。もちろん別にそれは問題ない。他の用務もある。ただ、以前と比べてコーヒーを飲む量は大して減っていなかった。
モニターには、整理中のユーザリストが表示されている。
「あ、ちょっといいですか。」
住友係長に、声をかけられた。
「本多さんの業務委託の件なんですが……。少し期間が空きましたが、また契約が始まるので、手続きをお願いしますね。」
「あ、はい。」
私の直属の上司である住友さんと本多さんは、昔からの知り合いだそうだ。
親子くらい年が離れているのに、どういうつながりがあったのかはわからない。とにかく本多さんが学生のころから、住友さんとは付き合いがあるらしい。
はじめの契約のとき、本多さんが会社に来たことがあった。ラフな格好で、髪の色は明るかった。メールでの印象よりも随分若くて、私は「親が勝手に芸能事務所に写真を送ってそう」と失礼な決め付けをした。
私は、挨拶した程度だった。景色の向こうで、本多さんが何か言えば住友さんが笑い、住友さんが話せば本多さんが笑っていたのを覚えている。
そんなふたりを思い返すと、余計に不思議だった。
住友さんに返事をしてから、少し迷った。けれど、つい聞いてしまった。
「あの。本多さんって、そんなにできる方なんですか。」
彼は、少し意外そうな顔をした。
「え?」
「あ、いえ……。」
私が言葉を濁すと、住友さんは笑って、言った。
「余人をもって代えがたい人材だよ。」
余人。
その言葉だけが、通り過ぎていかずに耳で引っかかっていた。
「ヨジン」って何だろう。
業務に戻り、PCで検索した。
「余人をもって代えがたい」。
他の人では代わりがきかないほど優れていること。
そういう意味らしかった。
なるほど。とにかく高く評価している、ということだけはわかった。
この仕事では、雰囲気だけでなんとなく理解したら、話が勝手に進んでいく。そんなことが多かった。
* * *
しばらくして、課の隅に置かれたノートPCは、OSがアップデートされ、更新版のセキュリティソフトが入った。
ある日の午後、住友さんから声がかかる。
「時田さん、今からオンライン会議入れたから入って。社内カレンダーにリンク貼ってあるから。」
「え?」
「本多さんと。契約関係の話も出るから。」
「私も、ですか?」
「うん。お願いね。」
私は、事務手続きのためにこの課に配属されている。システム課としての本格的な業務内容については、正直よくわかっていなかった。
それでも、言われるまま会議に入らざるを得ない。画面のカメラに本多さんが映る。以前に見たときと、さほど変わっていなかった。
「お久しぶりです。」
「お久しぶりです。」
私は小さく頭を下げた。会議が始まると、やっぱり私にはよくわからなかった。
AIエージェント。成果物生成の自動化。デファクトスタンダード。
知らない言葉が次々と出てくる。メモを取るにも取れないような対話。基本的には、住友さんによる依頼したい内容の説明だ。資料の画面は次々と移り変わり、とにかく早口だった。
「ここにアカウント発行して、最初にこの環境を見てもらって、あ、このスライドは飛ばします。それから既存のデータを……。」
それでも、住友さんと本多さんは、話が合うらしい。ときには笑いも交えながら、堅苦しくない雰囲気で会議は進んだ。
私は途中から諦めて、メモを取る手を止めた。ペンが転がり、会議室のデスクから落ちようとするのをかろうじて防ぐ。
システムのアカウントを発行したあと、本多さんに何か作業をしてもらう。それだけはわかった。
住友さんが一通り説明し終えると、本多さんが口をはさんだ。
「つまり、まず現行のシステム構成とデータの流れを確認して、既存のプロンプトや処理ロジックを見直す。そのうえで、実際の運用に合わせてエージェントを調整して、その領域でのデファクトスタンダードをこちらから作っていく……という理解で合っていますか?」
私は顔を上げた。その言葉の意味は、私でもなんとなくわかった。
「その通りです。」
住友さんは満足そうにうなずいた。
そのとき「余人をもって代えがたい」の言葉が、もう一度私のところに浮かんだ。
話を一度聞いただけで、住友さんが説明したことを理解し、別の言葉にして組み立て直した。私には、とてもできそうにないことだった。
「さて。」
住友さんが言った。
「時田さん。仕様書は私の方で下書きしますが、いつから始められそうでしょうか? 月ごとの支払いにしてあげたいのですが、可能ですか?」
私のほうに話が飛んできた。ペンを握る手に急に力が入る。
「そ、そうですね。」
私は頭の中で予定を確認した。
「今からですと、最速で十月頭開始で進められると思います。」
ふたりがこちらを見る。
「あと、月払いについてですが。」
私は続けた。
「先ほどのお話ですと、月ごとの成果を仕様書に事前に記載しておくのは難しい業務のように感じました。
定期ミーティングによる進捗確認を随時行う、のような文言を仕様書に加えて、毎月末に報告書を出していただくようにすれば問題ないかと思いますが……先に経理課にあたってみます。」
ここでもう一度、住友さんが満足そうにうなずいた。
「そういうことで、また見積依頼しますのでよろしくお願いしますね。」
「ええ。」
本多さんがこちらを見た。
「時田さん、またよろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしくお願いします。」
会議が終わった。
私は会議室を出て、いつもの仕事に戻った。
* * *
数日後、本多さんからメールが来た。
「仕様書、確認しました。ありがとうございます。」
添付ファイルを開き、契約関係の書類をデータで一通り確認する。
今年度になっていた。振込先も、現在のものになっている。必要な見積書も添付されていた。
私は少しの間、そのデータが表示された画面を見つめていた。
珍しい、と思った。
あれだけ間違いの多かった本多さんが、今回は全部そろえている。会議で見た本多さんの姿を思い出した。
あの人は、ああいうことが得意なのだ。
そう思ったところで、事務室の電話が鳴った。
「はい、システム課の時田です。」
「時田さん。すみません、本多さんの件ですが。」
住友さんだった。
「はい。書類データは受領しています。」
「経理から確認が来ていまして。振込先登録のメールアドレスが古いままで、メールが届かないそうです。」
私は一瞬、黙った。
そうだ。
振込先の登録情報は、更新されたら知らせてもらわないといけない。そこが止まれば、手続きも止まる。
「承知しました。本多さんに確認しますね。」
電話を切った。
机の端に置いてある、使いかけの付箋が一瞬目につく。私はPCに向き直り、本多さんにメールを作った。
「お手数ですが、振込先登録のメールアドレスについて……」
そこまで入力して、少しだけ笑った。
やっぱり、ちょっと抜けている。でも、不思議と以前ほど苛立たなかった。送信する前に一度読み返し、作った文面を確認する。
課の隅では、稼働テスト中のノートPCが静かに動いていた。そのうちまた、本多さんがそこにアクセスするのだろう。
会議で見た彼は、すごかった。人には、それぞれ得意なことがある。
私は、本多さんが苦手なことを、たぶん本多さんより少しだけ得意だった。
マグカップを手に取ると、もうコーヒーは冷めていた。私はそれを一口飲んでから、メールの送信ボタンを押した。