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猫にこんばんは【アマノ文筆クラブ】

    財布野紐ゆるみ

    長年暮らした家の、最後の夜。

    木の床や窓枠、棚の角に残った日常の匂いを、ひとつひとつ確かめるように歩く。重ねた年月を手放す寂しさが、胸の奥にじわじわ広がった。

    「建て替えなので退去をお願いします。」

    無機質に告げられたあの日のことを思い出す。十年以上暮らしてきた場所なのに、たった数行の紙切れ一枚によって、日常はあっけなく奪い去られるのだ。

    怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が、木目の隙間にまで染み込んでいるように感じた。

    ふと、ベランダの影に小さな黒い影が見えた。

    「……こんばんは。」

    自然と口から出たその言葉は、今までの習慣からきていた。

    返事はない。気まぐれにやってきては、そっと寄り添ってくれる存在。小さな黒猫が、静かにそこにいた。

    名前は分からない。名前を呼ぶ代わりに、私はその存在を確かめるように、いつも挨拶をしていた。

    「また来たの? 今日も会えたね。」

    猫はまばたきだけで答える。返事はなくても、この小さな存在が、温かさをそっと伝えてくれる気がした。明日でこの家を去るのだという寂しさが、少しだけ和らぐ。

    この部屋で泣いた夜も、笑った朝も、夏の風の匂いも、冬の静けさも。色々な思い出の中に、この黒猫の姿もきっと刻まれるのだろう。そんな風に思っていた。

    * * *

    数週間後、旧宅は取り壊され、重機や鉄骨が置かれた工事現場になっていた。

    引っ越した先では、必要な家具の買い替えなどが残っている。新しい部屋で落ち着ける気配がまだない中でも、待ってくれない仕事の日々。職場からの帰り道、かつての家の跡を足早に通り過ぎようとした、そのとき。

    私の足音にびくつくように、黒い影が鉄骨の影に体をひそめた。

    少し近づくと、影は一瞬逃げそうになるけれど、ふたつの目がこちらをとらえて立ち止まった。現場を照らす光を背に、黒い塊は徐々に猫のかたちの輪郭をまとって浮かび上がる。

    例の、黒猫だ。

    「……こんばんは。」

    呼びかけると、黒猫は変わらずこちらをじっと見つめる。いつも、表情では何を考えているか分からない。

    ここにはもう、暖かい部屋も、灯りも、いつもあげていたおやつもない。それでも猫は、壊された「家だった場所」をまた訪れていたのか。

    「きみと会うのは、いつも夜だね……。」

    その姿は、過去の生活を思い出させ、胸に痛みと温もりを同時に残した。

    「きみは……ずっとここにいるの?」

    言葉にしなくても、猫は返事をしているかのように、ゆっくりまばたきをした。その仕草が、まるで「あなたは?」と問い返しているように感じられる。なんだか、胸が締め付けられる想いだった。

    「名残惜しくなるから、名前をつけないでおこうと思ったのに……。」

    自分でも聞こえないくらい、小さくつぶやいていた。

    * * *

    それから私は、猫にこんばんはと挨拶をすることはなくなった。

    引っ越した先が、ペット可の物件なのは偶然だった。急遽探す必要があって、家賃が少しお高いのを妥協した、そんな部屋だったけれど。

    窓から差し込む柔らかな灯りの中、黒猫を抱き上げる。工事現場でのほこりっぽかった身体も、今ではさらりと艶がかかっている。

    「さ。今日から、ここがきみの家だよ。」

    猫は一瞬ためらい、でもすぐに体を預けた。胸の上で震える、小さな呼吸。抱き上げた軽さの中に、旧宅での思い出、工事現場での再会、そして──新しい生活への希望が重なる。

    床に下ろすと、黒猫はゆっくり歩き回り、私の足に頭をすり寄せた。
    その瞬間、今まで返されることのなかった「こんばんは」が、まとめて胸の中で響いた気がした。

    「ほら、そろそろご飯にしよ? 『こんばんは』。」

    一風変わった名前をつけられた猫は、みゃお、と小さく鳴いた。

    今まで挨拶だった言葉が、代えがたい特別な意味を持つ。

    過去と未来をつなぐ、小さな黒猫とのやりとり。
    それは、言葉以上の温かさを私の胸に残していた。


    ※以下の企画に参加させていただきました。


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