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白紙と、裏側【創作】

    財布野紐ゆるみ

    高校受験に失敗した、と言うと、たいていの人は落ちた試験の話を思い浮かべる。でもあたしの場合は、試験開始の合図すら聞かされなかった。

    中学三年の冬。

    信じられなかった。

    受験するはずだった、進学希望先への出願書類。担任の手違いで、あたし──菊池絵里奈を含む数名の書類が、提出されていなかった。気合いを入れて調べて、揃えて。使った時間と労力が、馬鹿みたいだ。

    その日から、あたしの中で何かが止まってしまった気がする。進学しなかったことよりも、選ばせてすらもらえなかったことのほうが、ずっと長く尾を引いた。

    家に帰る時間は、少しずつ遅くなっていった。前に進んでいないぶん、同じ場所をぐるぐる回っているみたいだった。

    親が何も言わなくなったころ、昼に働くことは選ばず、夜の店に出た。制服を着て、笑って、名前を変えて。時給はよかった。笑っていれば時間が過ぎる。次の日も。その次も。同じように、ぐるぐる回る。

    家では、あたしはピザ屋でバイトしていることになっていた。聞かれたときに、テキトーに答えただけの嘘。

    でも、兄にだけ、ばれた。なぜばれたのか、わからない。

    文句を言われたら噛みついてやろうと思って構えていたけど、責められなかった。

    「ま、やりたいようにやりな。身体こわさん程度にな。」

    気遣われたような、でも理解されてはいないような態度。そのことが、いちばんきつかった。

    昔みたいに、喧嘩できればよかった。

    だって、あたしはもう、止まってしまった。

    そう思っていた。

    * * *

    あの事故のことは、細かくは覚えていない。ただ急に、横断歩道で、車のタイヤが鳴いた。衝撃があって、何かがぶつかる音がして。代わりにそこで、人が倒れた。

    あたしじゃなかった。

    あのとき、あたしは周りをよく見ていなかった。急いでいて、考え事をしていて、足元しか見ていなかった。

    佐伯くんが、そこにいた。

    それだけが、頭に残っている。

    * * *

    彼が目を覚ましてから、あたしは病院に通った。恩義、と言えばいいのか。そうでも思わないと、そばにいる理由が説明できない。

    感謝してるのかな、あたしは。

    「あたし、佐伯くんに、恩があるんだよね。」

    言葉にしてみると、たしかにそんな気もする。

    彼は、そんなあたしを責めなかった。というより、責めるための記憶を失くしてしまっていた。

    彼は事故のことも、過去のことも。自分のことが、思い出せないと言った。あたしと同じ、受験生という身分を理不尽に奪われたことも、すっかり忘れていた。

    よかった? かわいそう?
    ……たぶん、そのどっちでもない。

    彼の記憶が戻ったら、あたしは、どうなるんだろう。何度もそんなことを考えた。あたしだったら、もしかしたら刺しちゃうかもな。

    じゃあ、放っておけばいい。

    なのに、できなかった。近すぎず遠すぎずの、適正な距離で。忘れてもいいような、他愛ない話だけをこぼした。あたしはそれが、ちょうどよかった。

    * * *

    事故のあと、夜に外を歩けなくなったあたしは、福祉の会社で働き始めた。

    変わったことは、音に敏感になったこと。

    段ボールを床に落とす音。車椅子が壁に当たる音。ベッド柵がぶつかる音。

    ドン。

    意味を考えるより先に、身体がびくっとする。心臓が、一拍遅れて鳴る。そちらを見る。そこに誰も倒れていないと、ようやく安心できる。

    あたしの所属の部署は、佐伯くんのかかりつけの病院と、雰囲気がどこか似ていた。忙しいけど、身体を動かしていると、生きている実感がある気がする。少なくとも──笑うだけで時間が過ぎていた、あの夜よりは。

    ある日、利用者の人が「今日はひとりで帰る」と言った。規則上、特に問題はなかった。本人の意思が尊重されるからだ。

    でも、歩き方が少し不安定だった。天気もやや下り坂気味。どこか、違和感があった。

    あたしは、動かなかった。そのあとの時間の人手も足りなかったし、特に何もできることはない、と思った。

    けれどその利用者は、帰り道で転倒した。雨にぽつぽつと降られ、足を早めたのが原因だった。

    軽くこけただけで、大事には至らなかったと、あとで聞いた。別に、誰にも怒られなかった。報告書も、淡々と書いた。

    それでも、胸の奥に、名前のつかない澱が残った。帰り道の、あの利用者の足元ばかりが、何度も思い出された。

    * * *

    病院の待合室で、あたしは佐伯くんに言葉をこぼした。普段は、しない話だった。

    担任の出願時のミスのこと。それから、「何か」が止まってしまっていること。

    「担任は、いい先生だったよ。」

    そう言ったけど、本当は、先生が憎くて憎くてしようがなかった。どうしてあたしが。あんたのせいで。当時はこみ上げる感情を、閉じ込めるのに必死だったと思う。

    でも……どうにもならないことが、この世界には、ある。佐伯くんは、うん、うんと頷いて聞いてくれていた。

    けれど彼からは、あのときの感情も消えてしまっている。当事者なのに、どこか他人事だった。

    そして「記憶を失う前の自分と、今の自分は違うと思う」と言った。

    あたしは、妙な安心感を覚えていた。その言葉が、聞きたかったのかもしれない。

    「うん。前の佐伯くんとは、また違う人格なんだと思う。」

    あたしは、そう言った。彼は少し考えてから、安心したように笑った。

    そのときは気づかなかった。その言葉が、誰に向けたものだったのか。

    * * *

    彼の検査が終わり、廊下を歩いていたときだった。待合の椅子から立ち上がろうとした老人が、よろけて体勢を崩す。

    ドン、と音がする気がして、あたしは立ち止まった。

    音がくる。

    まただ。

    ……怖い!!

    身体が、動かなかった。咄嗟に目をつぶる。

    でも、その音は鳴らなかった。代わりに、かららんと杖が床を転がる乾いた音だけが響いていた。

    佐伯くんが、老人の腕を掴んでいた。ためらいも、考える時間もなかった。ただ、彼の身体は先に動いていた。

    ああ。

    あのときも、きっと。

    先生はいい人だった。でも、結果は変わらない。佐伯くんも、きっと同じ。善悪なんかじゃない。ただ立っていた場所で、その身体が動いただけ。

    『前の佐伯くんとは、違う人格なんだと思う。』

    あれは、あたしが自分を守るために、自分に言っていた言葉だった。

    彼は、変わっていなかった。変わってしまったことにして、あたしは自分に嘘をついて、ただ彼という鏡に向かって。言い訳を並べていた。

    気づけば、目の奥が熱くなっていた。いろいろな感情が混ざって、外に出ようとしていた。でも、それが何なのかは、わからなかった。

    * * *

    それからあたしは、高認を受けると決めた。佐伯くんにも話した。それは、自分の背中を押すことでもあった。

    過去を取り戻すためじゃない。凍ってしまったままの自分を、動かすため。勉強も、自分なりに精一杯やって、今日の試験に臨めたと思う。

    兄は、勉強するあたしの部屋に、たまに夜食を差し入れしてくれた。何も言わなかったけど、見えない言葉で支えてくれている気がした。

    帰り道、寒風に立ち止まる。

    そういえば、佐伯くんも受験すると言っていた。どうだったかな、と思った。でも、連絡はしないでおこうと決めていた。

    数日後に、そのメッセージは届いた。

    佐伯くんだった。彼からの連絡は、珍しい。確認して、冒頭の文章に視線が吸い寄せられる。

    『久しぶり。突然でごめん。最近、少しずつ昔のことを思い出した。あの事故のことも。』

    その先にも、文章が続いている。

    音は、鳴っていない。

    あたしは息を吸い込んで、画面をスクロールした。



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