
僕にできること【創作】
レジが紙幣導入機に切り替わってから、しばらく経つ。釣銭を手で数えなくていいようにはなったものの、セルフレジはまだ導入されていない。
レジフォローに入っているときだった。商品をスキャンしていると、客のショッピングカートの下段にもかごがあることに気がついた。
白菜やネギなどが入っていたため、僕は念のため声をかけた。
「お客様恐れ入ります。お足元のお野菜は、お会計お済みでしょうか。」
ひとつの文章に接頭語の「お」をいくつつけるんだ僕は。そんなことを考えながら、目の前の女性客の返答を待つ。
「会計? ……なによ、済んでいるわよ。失礼ね。レシート見せればいいの?」
失礼……だっただろうか。
少し前にも、下段のかごに物を置き、その下に未精算の上等な肉のパックをしのばせてレジを抜けようとした客があった。
カートの上下に置かれたかごの商品に、通し忘れがないよう確認するのは業務の範囲内だ。
バン、と音を立てて、その女性客は金銭授受のトレイにレシートを叩きつけた。
「申し訳ありません。精算済みとのこと、失礼しました。」
中年の女性はこちらを睨みつけながら、今もぶつぶつと文句を言っていた。一度機嫌を損ねると、この手の客は取り繕っても無駄だ。頭を下げて同じ言葉を繰り返すより他にない。
「あなた外国人? もう少し接客をちゃんとしなさい!」
そう吐き捨て、彼女はカートを押して去っていった。目の周りの濃いメイクの残像が、しばらく頭から消えなかった。
「失礼だ」とか、「ちゃんとしろ」とか。それは、できている人間が言うべき言葉ではないのだろうか。
客層もあるかもしれない。だが、この店ではこのくらいのことは日常茶飯事だ。
品出しのために近くを通るだけで急に怒鳴りだす客。開封済みの商品を返金しろとごねる客。
それまで毎日のように従業員と親し気に会話していた常連客が、万引きGメンが入った日に事務室へ連れていかれることだって珍しくない。
食品部の主任になってからは特に、人の嫌な部分を見ることが増えた。
* * *
客の列が途切れ、ひと息ついていると、レジ部の主任に声をかけられた。彼女は母親くらいの年齢だが、話しやすい。
「休憩回し終わったから。レジありがとう。……さっきの、気にしなくていいからね。」
僕と客とのやりとりを一部見ていたらしい。
「ああ。まあ、同じ対応でも人によって怒ったりしますから、しょうがないですよね。」
「……あんたも、いつまでもこの仕事で大丈夫なの?」
僕は苦笑した。本当に、母みたいなことを言う。朝の早い、長時間労働。おまけに力仕事。大学を出て新卒入社して、六年が経っていた。
自分の「主任」という肩書にも、実力が認められた感はない。会社の「若手にチャンスを与えている」パフォーマンスに巻き込まれているという感覚が正直強かった。
それでも、職業に貴賤はないし、あらゆる労働は尊いはずだ。誰かがやるから、社会は回る。
「……いやあ。」
僕は言葉を濁して、そのままレジを交代した。そのタイミングで、隣の二番レジからも小声で話しかけられた。
「さっきの、ダダでしょ? あの人は特に気難しいのよ。」
ダダ、というのはさっきの客のあだ名だろう。本名を知らない以上、迷惑な客や厄介な客にはあだ名が付けられた。僕は見覚えはなかったが、どうやら常連客だったらしい。お客の顔はやはりレジ部が一番見ている。
「覚えておきます。」
パートさんにそう言って、僕は品出しの業務に戻った。
* * *
小雨の降る中、トラックが搬入された。
僕は部下に売り場を任せ、荷受けの方に回る。この店舗では、雨は少し厄介だった。倉庫らしい倉庫がない関係で、ビニール屋根のある狭い区画の中で在庫整理や荷下ろしを行う必要がある。
「まいど、坂本通運です。」
がちゃり、とトラックの背中を開けながら、覇気のない声で言うその男性は、どこかおどおどしていた。年のころは、五十代くらいだろうか。帽子の脇から白髪がのぞいているのが見える。
いつもの坂通の兄ちゃんじゃないな。
ぼんやり考えながら、荷下ろしを待つ。おじさんは濡れたカゴ台車にそのまま箱を下ろそうとしたので、横から畳んだ段ボールを底に敷いた。
入荷したメインの荷物はこんにゃくだ。箱の積み方や箱濡れに注意しないと、すぐに角から液が漏れる。
「濡れないように気をつかえよ、そんくらいよ。」
後ろから声がした。声の主は若い兄ちゃんで、おじさんに言ったようだ。彼らは同じ緑色の作業着を身に着けていた。
ひとつずつ箱を下ろしていくおじさんに、兄ちゃんは手伝うわけでもなく文句を言う。横柄に、腕をくみながら。
「遅せえよ、濡れるだろうが。ふたつずつくらい持てんだろ。」
一回り以上も年上に見えるおじさんに対し、兄ちゃんはとげのある言葉を投げつける。
気持ちはわかる。早めに下ろしてしまわないと、商品も濡れる。二箱でも、無茶な重さじゃない。
だけど、この兄ちゃんがこの位置に立っていなければ、僕が手伝ってとっとと一緒に下ろしてしまえるのに。そう思っていた。
荷下ろしが終わり、カゴ台車はビニール屋根の下になんとか収まった。僕がボールペンを取り出すと同時に、また怒鳴り声が響いた。
「おい! 伝票は!」
「あれ……車の中かもしれません、とってきます。」
「早くしろ。濡れるだろうが。」
おじさんの尻のあたりに、兄ちゃんが膝を入れた。地味に痛いと思える勢いだった。おじさんはよろめきながら、何も言わずにトラックの方へ走る。
濡れるだろうが。
こんにゃくの箱は、もう屋根の下に入っていた。この人は、自分の身体が濡れることだけを言っている。
少し前にも、態度の悪い納品業者がいたことを思い出す。納品時にトラックを邪魔な位置に止め、その上で注意をしたお客に対して悪態をついた……などだったと思う。
店長はそのとき、納品業者の商品を受け取らずに追い返した。以降、その業者の担当は変わった。
それにしても。
この兄ちゃんも、相当ひどい。年上を敬って当然、と言いたいわけではない。ただ、彼のおじさんへの態度や、扱う商品に対する誠意のなさを見て、こんな奴と仕事で絡みたくはないなと思った。
おじさんが再度現れると、兄ちゃんは入れ替わりでトラックの助手席に戻っていった。おじさんは汗か雨かで作業着を濡らしながら、丁寧に伝票をこちらに差し出した。
僕は、サインをした伝票を返すとき、思い切って声をかけた。
「あの……僕、さっきの人の態度が許せなくて。会社に言ってもいいでしょうか?」
おじさんは顔をあげてこちらを見る。はじめて、彼と目が合った気がした。少しの沈黙のあと、言葉を続けた。
「おじさんに迷惑がかからないなら──。」
彼は強く首を横に振り、少し声を大きくした。
「やめてください。やめてください。さっきのなんて、いつものことです。私もうっかりしてるもんで……。」
「でも。」
おじさんは顔を再び伏せて、伝票を握りしめていた。肯定的な言葉は、出てきそうにない。
「偉い人なんですか。」
「……はい。専務の息子とかで。」
うなだれるようにして、彼はそれだけ言った。僕は何も返せなかった。本当は、大きなため息が喉元まで出かかった。けれど、おじさんの顔を見るとそれも飲みこむより他になかった。
「ありがとうございました。」
そう、互いに声をかけあって、おじさんはトラックに戻った。
小雨は相変わらず屋根をばらばらと打っている。トラックが、低い発進音とともに遠ざかっていった。もう、あの兄ちゃんの姿は見えない。なのに、車内からまた怒鳴るような声が聞こえた気がした。
到着したこんにゃくの箱を、手押し台車へ移す。
女性客のメイクの目つきと、視線を下に向けたさっきのおじさんの表情とが、頭の中で重なった。
台車を押し、バックヤードから売り場へ通じるスイングドアを抜ける。がたん、と両腕に手ごたえがある。
今、僕はどんな顔をしているのだろう。
浮かんだ疑問の答えは出ないまま、店内の喧騒が僕を迎えた。