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朝六時の暖簾【創作】

    財布野紐ゆるみ

    たぶん、私には安心感が必要だった。念のため、自室のパソコンのログインパスワードは、今朝もう一度変えた。

    私服は、どれを身につけていいのかすっかり忘れてしまっている。どれもしっくりとこず、結局いつも通りネクタイを締め、自然と職場の方へ足は向いていた。

    道に面した南公園からは、雨上がりの緑の匂いが漂っている。しかし、そこには入らず、選んだのはいつもの通勤路だった。

    いつもと違うのは、職場には行かなくていいということだった。

    角のパン屋は、相変わらず開いていない。寄るのにちょうどいい場所に位置しながら、十時オープンという理由で、仕事前に朝食を買うのに店に入ることはなかった。

    パン屋って、もっと早くやっているものだと思っていたが。

    十時といえば、とっくに朝礼を終えて、ばたばたと準備をしている頃合いだ。

    普段なら朝も昼も、コンビニで買った菓子パンや総菜パンですませていた。ところが今日は出がけに寄ってこなかったので、朝食をとる店をこのあたりで探すことにする。

    しかし、意外とない。駅前の方まで戻ればいくらでもあるが、職場の周りは「朝から開いている店」がかなり限られている。

    見つけたのは、少し歩いたところにあるうどん屋だった。看板の営業時間を見て驚く。ここは午前六時からやっているらしい。

    片手で、少し重い扉をガラガラと滑らせた。

    「こんにちは。やってますか。」

    店名の暖簾がかけられているのを直前に見ていたにもかかわらず、思わずそう声をかけた。昔ながらの内装の店内には、少し古い木の匂いがして、遅れてあたたかい出汁の香りが鼻腔に届いた。

    「やってるけど。」

    奥から小さく声がして、初老の女性が顔をのぞかせる。どうやら店主らしいが、その言い方からは、あまり歓迎されているように感じられなかった。よく見れば、店内には他に客もいない。

    「えーっと、じゃあ、かけうどん大盛り、ネギ増量で。」

    メニュー表ではたしか、大盛り料金とネギ追加分をあわせても、八百円程度だった。店主の女性はなぜか少々難しい顔をしながらも、「あいよ」と奥に消えていった。

    待っている間、あたりを見回す。テレビもなく、雑誌が少し置いてある程度の店。客の少なさにも、なんとなく理由はありそうだった。すぐそばには食べられる店も少ないため、昼食をとるなら大通りまで歩いたほうが店の選択肢が広がる。ましてや、朝一番からここに来ようとは……。

    「お待ちどう。」

    意外と、料理の提供は早かった。ことりと丼が前に置かれる。愛想のなさのわりに、店主の動作は丁寧だった。うどんの湯気に目をとられていると、横から声が聞こえた。

    「今日は仕事、遅いのかい。」
    「ええ、まあ……。」

    割り箸を左右に引きながら、少したじろぐ。一瞬あの日の、警察の人の顔が浮かんだ。案の定というか、割り箸は左右で大きくかたちを変え、自分至上でも稀にみる失敗の割れざまとなった。

    適当に答えたものの、あのころはかなり参っていた。理由は自分でもわからない。

    社内の文書が、自室の机から出てきたとき。誰かが侵入して机を開けたに違いない、そう思い込んだ。

    パニックになって警察を呼んだ。職場に電話がいき、上司が対応してくれたという。

    そのあと私は、パスワードも、通帳の場所も、全部確認しないと気が済まなかった。鍵も交換し、すべて納得いくかたちで処理しないと、と思った。私はシステムの管理権限に触れる仕事をしていたから、なおさら恐ろしくなった。

    しかし職場に戻ったとき、上司に説明を受けて、全身が震えた。私の部屋にあった紙は、職場で配布された資料であり、私が持っていておかしくないものだったと、警察へ丁寧に伝えたという内容だった。

    私自身でも、勤務先の事務に連絡し確認した。ご丁寧に、私の受け取りの署名を証拠として提示してくれた。

    迷惑をかけた私は、もう次の日には退職の意向を伝えていた。念のため、私がかかわったすべての関連パスワードを更新してもらえるよう、強く申し添えた。

    出汁の香りに、はっとした。不格好な箸で、うどんをつかむ前に、私も店主の女性に声をかけた。

    「あの……朝早くから開けていて、人が入りますか?」

    女性は少し間をおいて、笑った。

    「来るわけないでしょ。失敗したよ。」

    聞けば女性は、通いで毎朝店を開けているという。儲かりはしないが、道楽のようなもので、開け続けていると。

    「以前は、朝イチに来る常連客もいたよ。タクシーの運転手。いつも大盛りで、ネギ追加するおっさんだった。……どうしてるのか、今は来ないけどね。」

    女性は、遠くを見るような目で、近くのカウンター席の方へ視線をやった。

    「……でも、閉めないんですね。」
    「暖簾を出してりゃ、ここの店主でいられるからね。」

    思わず私は、羽織っていたジャケットの内ポケットに手をやった。まだそこには、私の名刺が数枚入っている。これは、処分してもいいものだった。どうせ今後、誰かに渡すことはない。

    私は黙って、うどんをすすった。温かく、私のどこかに沁みこんでいくような味だった。

    食べ終わって、小銭で支払う。店を出るまで、私以外の客は入ってこなかった。

    「明日も早いんでしょ。」

    背中から声がかかる。

    私は黙って、うなずいた。明日も、行く場所はなかった。


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