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気に入ってきた【創作】

    財布野紐ゆるみ

    そんな、言うほどは悪くないと思うんだけどな。

    私は兄を見て思っていた。年が少し離れているし、たまに意地悪もされるけど、私が本気で嫌がることはしない。

    身長、体重、成績は人並みだが、まつ毛が長くて、お魚をきれいに食べることができるのは評価点だろう。ただ、兄は昔から少しだけ、センスがない。

    この間は部屋でデニムを広げて、カッターで膝のあたりを切っていた。

    「なにしてんの?」
    「ダメージジーンズ。」

    兄は得意げに言った。

    でもそれは、位置も変だし、ただ事故って引っかけたみたいな傷だった。

    ワックスをつけて家を出ても、小雨の日には目的地に着く頃にはぺったんこになっているし、ネットで見たらしい重ね着は、なぜか結婚式の小学生みたいになる。

    本人も薄々わかっているのか、鏡の前で首を傾げていることが多かった。

    だから夕飯のあと、「美容院行くわ」と兄が言ったとき、私はちょっと驚いた。

    兄はソファに寝転がったままスマホを見ていた。私はそれを見ながら、言った。

    「いままで千円カットだったのに。」
    「まあ、高校生にもなったしな。」

    その言い方が、古い映画のセリフみたいだった。兄はたぶん、「高校生っぽいもの」をずっと気にしている。

    数日後、兄は美容院へ行った。出かける前に、本当はいろいろアドバイスしたかったけど、あえて口出しはしないようにした。余計なことを言われると、彼は全部どうでもよくなってしまうことがある。

    我ながら、いい妹だと思う。

    * * *

    しかし帰ってきた兄を見て、私は言葉を失った。

    なんというか、会社員だった。

    「仕事帰りのサラリーマンカットで」とリクエストを受けた新人美容師が、迷ったあげく仕上げたような髪型だった。そのくらいくたびれていて、そのくらい居酒屋で枝豆を頼みそうだった。

    兄は靴を脱ぎながら、こっちを見ずに言う。

    「……変か?」

    回り込む。前からの見た目に一縷の望みを託したが、祈りは天に届かなかった。兄の前髪は妙な流され方をしていて、横はぴっちりで、全体的に四角かった。

    「いや……変というか……。」

    私は視線を逸らした。ここで口ごもっては、兄の気持ちが。

    「やっぱ、変なんじゃん。」
    「……会社員みたいでは、ある。」
    「終わりだろ、それ。」

    兄は少し笑った。でも、全部は否定しきれていない顔だった。たぶん、こう思っている。

    変な気もする。でもプロがやったんだから、こういうものなのかもしれない、と。

    兄は昔からそうだ。

    似合っているか分からない服でも、「これがおしゃれなのかも」と思って着続ける。いらないものでも、ちょっとかわいい子からもらったものなら、大事にとっていたりする。

    失敗かもしれなくても、なんとか好きになろうとする……。

    いらいらと、やきもきが一緒くたになる。私は言った。

    「ちょっと、切ろうか?」
    「え、お前そんなんできんの?」
    「やったことはないけど、お母さんの、すきばさみあるよ。」

    兄は少し迷ってから、「今よりいくらかマシになるなら」と言った。

    私の方も、「今よりひどくはできなさそうだろ」と思っていた。

    * * *

    私は洗面所で兄の髪を霧吹きで濡らし、動画で見た美容師みたいに髪を指で挟んだ。

    「動かないで。」
    「怖え。」

    兄は笑っていた。そういえば、兄の髪に触るなんて、久しぶりだった。少し切るたび、なんとなく整っていく気がした。サキ、サキと軽い音が近くで鳴って、そのたびにかすかな音が新聞紙に落ちていく。

    なんだ。自分の眉毛を切るよりカンタンじゃん。

    少し調子に乗ったかもしれない。自分の細かい手の動きに見とれて、気持ちがお留守になっていた。

    「あ。」
    「なに。」
    「いや……?」
    「なに。」

    右側がない。急に消えた。髪の落ちる音が、遅れて聞こえた気がした。少し黙る。

    整えるために、左も切った。もっと変になった。今、ちょうど。帰ってきたころの兄と同じくらいのラインの「変さ」な気がする。

    調理実習で学んでいたのに。一度入れすぎてしまった塩は、あとから砂糖を足してもリカバリーできない。

    一か八かで後ろもなんとかしようとして、いよいよ取り返しがつかなくなった。

    * * *

    三十分後、兄は鏡を見つめて黙っていた。私は後悔していた。はさみが悪かったせいには、今さらできない。私の手が生みだした罪の数が多すぎた。

    「……ごめん。」

    兄はしばらく鏡を見て、それから真顔のまま、吹き出した。

    「やべえ。」
    「ほんとにごめんって……。」

    これ、怒鳴られるだろうか。そうなれば、幼少のころ、兄のおもちゃを池に投げ捨てたとき以来になる。

    「いや、これじゃあ。」

    兄は自分の横髪を引っぱった。

    「文化祭の劇みたいじゃないか?」

    笑顔が戻ったので、私は少しだけ安心した。

    「もう、いっそお父さんのバリカンで坊主にする?」
    「坊主はいやだ。野球部と思われるから。」
    「でも、学校でなんか言われたら……。」
    「妹に切られたって言うよ。」
    「恥ずかしくない?」
    「まあ、ちょっとおもろいだろ。」

    兄はまた笑った。

    * * *

    翌朝、兄は寝癖のままリビングに来た。そのせいで、昨日よりさらにひどくなっていて、余計にいたたまれなくなる。

    私は思わず、「帽子かぶる?」と言った。兄はまた、玄関の鏡をちらっと見た。

    それから、「いや」と首を振る。

    「ちょっと、気に入ってきたから。」

    このときの兄の言葉も、なにかの映画のセリフみたいだった。それが、彼の本音なのかは、私にはわからない。

    でも。

    兄が通り過ぎたあと、シャンプーの匂いがふっと残る。その匂いは、昨日よりも少しだけ、ちゃんとしていた。


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