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誰も読まない小説【創作】

    財布野紐ゆるみ

    あれは、まだ会社がぎりぎり持ちこたえていた頃の話だ。
    社員数十人ほどの、小さな会社だった。

    社長の息子がいた。年は僕より二つ下。彼の与えられた肩書きは「営業補佐」だが、実際のところ、補佐する必要のあるほど業務量はなかった。


    彼はどの仕事も中途半端で、すぐに投げ出してしまう。会議中に集中せず話を聞いていないことも多く、僕を含めた周囲は、誰も彼を信用していなかった。

    あるとき、経理データの打ち込みを手伝わせたことがある。機械的に、見たままを打ち込むだけの単純作業。小さなミスもあったが、これなら任せていても問題なさそうだった。

    だが、それも数週間と続かなかった。新しく入った新人がエクセルでマクロを組み、入力作業を自動化してしまったのだ。

    「これでもう、手作業は要らないですね」と新人が笑ったとき、彼の顔が、少しひきつっていたのを覚えている。

    それから、彼は会社に来る頻度が減ったように思う。
    別に、誰も困ることはなかった。

    彼が来ても、そのあたりの掃除、倉庫の片付け、書類の裁断──誰もが片手間で済ませてしまうような雑務を任せられていた。作業の合間には、PCの前でぼんやりネットニュースを眺めていることが多かった。


    ──ある日、共用PCの整理をしていて、僕は「隠しフォルダ」を見つけた。
    「無題」「story」「試作」「final」……そんな名前のファイルがいくつも入っていた。

    開くと、文章が並んでいた。どうやら、彼が書いた小説らしい。

    彼には悪いが、最初、笑い話のネタになると思った。同僚のひとりを呼んで、こっそり読んでみた。

    ひとつ目の話。

    主人公は冴えない青年で、いつも上司に怒られている。でも、あるきっかけで大きな仕事を成功させ、周囲から一目置かれる存在になる。

    ふたつ目の話。

    主人公はあるとき、神様に特別な力を与えられた。変身能力で、なんにでもなれる。空を飛びまわり、超能力で困っている人を助けることも。美形の男に変身し、美女にちやほやされることも自由自在だ。

    そんな、どこにでもある、成長や願望を描いた物語だった。

    「やっぱり社長の息子って感じだな。」

    同僚が笑った。
    僕も最初は笑った。けれど、なぜだかすぐに笑えなくなった。

    読み進めるうちに、その文章の拙さの向こうに、彼自身の声のようなものが、かすかに聞こえてきたのだ。

    思うようにできない焦り。人とうまくやれない自分への苛立ち。どうせ何をやってもダメだ、という諦め。

    それでも、どこかで「変わりたい」と願っている小さな希望。何かしなくては、どうにかしなくては、と世界の中で足掻く人間像。

    ──それらが、不器用な言葉の間ににじんでいた。

    思い返すと、彼が怒ったり、誰かにあたったりするところを見たことがなかった。

    仕事がうまくいかないときも、ただ黙って机を片づけていた。
    話すことは少ないが、笑顔でいようとしていた。

    彼の小説には、その姿がそのまま表れていた。それを笑っていた自分の浅はかさが、急に恥ずかしくなった。

    ひとの創作物には、その人の生き方や願いがかならずにじむ。それを笑うというのは、その人をまるごと否定することなのかもしれない。

    その日以来、僕は彼を見るたびに、少しだけ目を逸らしてしまった。彼の無能さではなく、彼の孤独や苦しみの方を見てしまいそうだったからだ。


    数年後、会社は倒産した。

    業界の波に乗って一時的に伸びただけの、もろい事業だった。みんなばらばらになり、彼とも二度と会っていない。

    たまに、思い出す。あの隠しフォルダの一節を。

    「それでも、明日こそはちゃんと笑おう。他人と比べられない自分でいよう。」

    彼の指が、その文章を不器用にタイプする姿がまぶたの裏に浮かぶ。何度となく読んだ、業務マニュアルや朝礼時の社訓よりも、ずっと心に残っていた。

    あれはきっと、彼の、彼自身への言葉だ。
    そして今では、僕の胸の中でも、ひっそりと生き続けている。


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