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自身の体験を入れてください【創作】

    財布野紐ゆるみ

    雨の気配が近い、六月の夜。冷房の効ききらない部屋で、氷を入れたグラスの水滴が、机に輪をつくっていた。

    部屋の片づけをしていると、引き出しの奥から古いUSBメモリが出てきた。黒いプラスチック製で、キャップの端が少し欠けている。大学に入った頃に買った、安物だった。

    差し込むと、いくつかのフォルダが並んだ。

    「講義資料」
    「宅建」
    「履歴書」
    「記事代行」

    その名前を見た瞬間、妙に懐かしい気持ちになった。昔、ブログ記事の代行の仕事を請け負っていたことがある。

    単純思考。文章を書くのが苦手なのでその克服になるかなという気持ちと、顔もわからない人から報酬をもらうということへの興味が、ちょうど半々だった。

    資格試験の勉強をしながら、小遣い稼ぎのつもりで始めた仕事だった。ネットにはまだ「個人ブログで稼ぐ」だとか「副業ライター」だとかいう言葉が、今より少しだけ夢の匂いを含んで漂っていた時代だった。

    ライティングマニュアルも残っていた。

    PDFを開く。

    ・ターゲットを明確にしてください
    (例:30代主婦、20代男性会社員など)
    ・タイトルの前半にこちらの指定キーワードを含めてください
    ・必ず一か所以上、自身の体験からくる文章を盛り込んでください

    その一文を見て、少し笑ってしまった。

    自身の体験か。

    女友達すらろくにいない頃に、「ホワイトデーに喜ばれるプレゼント10選」という記事を書いた。

    騒がしい場所が苦手なくせに、「野外フェス初心者の心得」をまとめたこともある。

    子供もいないのに、「トイレトレーニングで困ったときの対処法」という記事を書いたこともあった。

    自身の体験を入れてください、という指示に困って、「子育て漫画で見た場面なのですが」と無理やり文章をひねり出した記憶がある。

    当時は、それが変だとは思わなかった。基本的には検索して調べた結果をまとめ、より検索される文章を仕上げることが仕事だった。

    検索窓に打ち込まれる言葉を予測し、悩みらしい悩みを整形して、答えらしい答えを差し出す。必要なのは事実そのものではなく、「体験っぽさ」だった。マニュアルの指示にあった通り、できるだけ、人間らしさをそこに添えた。

    ファイルを開いていく。

    「ビールに合うおつまみ五選」
    「失敗しない転職サイト選び」
    「寝ぐせを簡単になおすコツ」

    どれも、今検索しても出てこないだろう。掲載されていたブログは、短期間に何度も名前を変え、やがて検索にも引っかからなくなった。

    インターネットは永遠に残ると言われていた。けれど実際には、大量の文章が毎日静かに沈んでいく。自分の書いたものも、その深い場所で積もっているのだろうか。

    長い時間をかけて圧縮され、いずれ石油にでもなるみたいに。

    無料画像サイトのイラストを選んだり、書いた文章を納品前に剽窃チェックツールにかけたりした日々。「この工程意味あんのか」と思いながらやっていた作業。実際、意味があったかは、結局わからないままだ。

    当時の自分は、人の役に立つ文章を書こうとしていた。誰かの検索結果に割り込んで、数分だけ読まれて広告へ誘導し、そして静かに、役目を終える。

    今のAIも、たぶん同じことが得意だ。

    情報をまとめること。要点を整えること。そして、人にわかりやすく伝えること。

    便利なものだと思う。

    昔、自分たちが手作業でやっていたことを。もっと速く、より正確にやっているだけなのかもしれない。

    けれど。

    USBメモリの中を眺めながら、思いを馳せる。

    大学に入ったばかりの頃に買ったノートPC。資格の勉強のあと、深夜のファミレスで記事を書いていた。時間を見つけて地道に書いても、よくてその月の携帯代くらいにしかならない。創出していたのは、その程度の価値のものだった。

    隣の席では、高校生らしいふたり組がずっと進路の話をしていたっけ。

    片方は東京へ行きたいと言い、もう片方は地元に残るつもりだと言っていた。アイスコーヒーの氷が溶ける音と、眠そうな店員が食器を下げる音を、なぜか今も覚えている。

    宅建の試験には合格したものの、資格は結局一度も使わなかった。取引士証の申請をすることもなく、知識だけが古びていって、今に至る。

    それなのに、あの頃代行で書いた記事のテーマばかり、妙に頭に残っている。

    検索ワードに乗らないこと。ノウハウにもならないこと。誰の悩みも、解決しないこと。

    そういうものだけが、時間の底に沈まずに残っている。

    深夜二時に書かれた文章。推敲しきれていない比喩。途中で話が逸れてしまう癖。情報としてはノイズだらけだ。

    けれど、その均質ではない部分に。

    「整合性ないけどなんとなくわかる」とか、「読みづらいけど熱量は伝わった」とか。そういう何気ないところに、「ここに人がいた」という感触が宿るのかもしれなかった。

    画面の隅で、カーソルが点滅している。何かを書こうとして、新しいテキストファイルを開く。

    指定のキーワードはない。タイトルもまだ決めていない。

    そばに置いたグラスの氷が、からんと涼し気な音をたてる。

    どうせ検索されない文章になるだろう。でも今は、そのことを少しだけ、悪くないと思っていた。


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