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シャチの瞳と別世界【創作】

    財布野紐ゆるみ

    港町の古びた水族館。
    潮の匂いがかすかに残る館内は、平日の午後で人影も少ない。
    大きな水槽の前には、ぼくひとりだけが立っていた。

    黒と白の巨体が、水を切って近づいてくる。
    目の上の白い斑が仮面のようにこちらを見据えている。

    ──シャチだ。

    なめらかな動き、抵抗のない世界。
    どこへでも行ける自由を持ちながら、それでもただ、ここを泳ぎ続ける姿。
    ぼくは不意に、うらやましいと思っていた。

    ガラス越しに、小さな瞳と視線が合った瞬間、胸の奥がざわめいた。
    ただの獣の瞳じゃない。底なしの海を抱えたような、深くて、冷たい光。

    ──呼ばれている──。

    そう思ったときには、もう遅かった。

    視界がぐらりと揺れ、世界の輪郭が歪んでいく。
    次の瞬間、全身が浮遊感に包まれる。

    水の中に沈む感覚。けれど息は苦しくない。
    まるで水の一部になったように、体が重たい沈黙に包まれている。

    眼下には海溝が口を開け、頭上には月明かりのように揺れる光。

    ……ここは?
    声を出したはずなのに、泡も音も生まれない。

    そのかわりに、頭の中に、低く響く声が聞こえてきた。

    ──ようやく、こちらを見たな。

    それは、シャチの声だった。
    シャチの声など聞いたこともないのに、そう確信を持つことができた。

    巨体が目の前を横切り、巻き込む渦のような眼差しがぼくを捕らえる。

    ──ずっと、おまえたちを覗いていた。

    昔、図鑑で読んだことがある。
    シャチの視野は、水中と空中を同時に捉える特殊な構造をしていると。
    ...…あの目は、世界と世界の境界を見ていたのかもしれない。

    心臓が強く打ち、視界が回転する。
    光と影が反転し、世界が裏返ったような感覚。

    肌に触れる冷たい水。水面に反射する光の揺れ。

    ──そして、ガラスの向こうに「ぼく」が立っていた。

    その目には深い海が浮かんでいた。
    泡立つ波、暗い潮、遥か遠くの渦。
    その眼差しが、こちらから離れない。

    ぼくはふと、気づく。
    ──いや、違う。あれは「ぼく」ではない。

    そう口にしたつもりだったが、声はもはや、うたかたと消えていた。

    水の内側にいるのが本当に自分なのか、
    外に立っているのが本当に「ぼく」だったのか、もう確信は持てなかった。

    ガラスの向こうでその顔が、ゆっくりと笑ったようだった。

    世界がどちらの側にあるのか、もうわからない。

    自分の意識は、水槽の外に立つ「ぼく」が、館内を歩き去っていくのを見ていた。


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