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やわらかい手【創作】

    財布野紐ゆるみ

    締め切り前夜。部屋の片隅で、湯気の消えかけたマグカップの縁を指でなぞりながら、ノートPCに向かっていた。

    甘さひかえめのココアを飲み干し、ひと息つく。

    応募するつもりの短編小説は、もうほとんどでき上がっている。

    十数回も読み返し、言葉を削り、息を吹きこむように直してきた。書いているあいだ、何度も母の声が思い出された。

    ──あんたの書くもの、私は結構好きよ。

    亡くなる数か月前、病室で母が笑って言った。輸液ポンプの電子音が、いつもより少しゆっくり聞こえた日だった。

    本当は痛みで眠れていないはずなのに、母はいつも俺たちの前では「大丈夫よ」と言って、俺が持っていったプリンを半分残しては「あとで食べるね」と笑った。あとで、はとうとう来なかったけれど。

    そんな母との日々を綴った作品だ。

    親孝行が足りなかった悔いを、胸の奥からすくいあげて、やっと言葉に変えた。母の小さな強さや、最後まで気丈であろうとした姿を、俺は顔の見えない誰かに読んでほしかった。

    これは、俺の中でずっと固まらないまま沈殿していた気持ちの、初めての出口だった。

    ──もう、削れるところはない。書きたかったことも書けた。……送信、しよう。

    俺は応募サイトを開き、作品ファイルを選んだ。タイトルはいくつかあった候補のうちから「やわらかい手」に決めた。

    母の手は最後まで、不思議なくらい温かかったから。

    送信確認画面の、下の方に光るものを見つける。画面の下に小さく「応募規約」のリンクがある。普段なら読み飛ばしてしまうような場所だ。

    でも、なぜか今日はクリックした。もしかしたら、母が「ちゃんと読みなさい」と言っていた気がしたから……かもしれない。

    スクロールすると、目を疑う文言がそこに並んでいた。

    ──入選作品の著作権は、主催者に移転します。
    ──作品の改変、再利用、商用化を含む幅広い利用を主催者が行えるものとします。

    俺は思わず息を止めた。

    著作権が「移転」する。

    つまり、この物語は、俺の手を離れてしまう。

    たとえ作者が自分でも、もう勝手に続編を書けないし、母の話が、知らない誰かの手で別の色に塗り替えられてしまうかもしれない。

    「……マジか。」

    自分のものとは思えないような声が漏れた。

    俺が書いたのは、あくまで小説というジャンルの、フィクショナルな創作物だ。

    けれど。

    病室で、手を握り返してくれたあの瞬間。帰るたびに「今日は寒いでしょ」と毛布をかけてくれたあの手。耳にいつまでも残っている、最後に呼んでくれた俺の名前。

    呼吸器をつけてあげて、体勢を楽な角度に起こしてあげたとき、寄りかかってくれて嬉しかったこと。

    それらを全部、物語にして封じ込めた。誰にも触れられたくない部分まで、ほこりを払うように丁寧に、そして正直に書いた。

    悲しい記憶が、波のように押し寄せた。

    急な、医者からの知らせ。震えて何も考えられなかった車の中。ついさっきまで見せてくれていた笑顔。医療用消毒液の匂い。乾燥した空気。白いカーテンから漏れる光……。

    冷たい風が窓ガラスを揺らし、はたりと音を立てた。にじんだ視界の中、デスクライトの灯りが、ぼんやりと手元に残っている。

    時間をかけて、俺の想いを切り出して。言葉を選んで試行錯誤して。ようやく紡ぎ出した集大成だった。

    それを、入賞した場合のみとはいえ、「権利」として誰かに渡すなんて、できるはずがなかった。

    応募したら、もしかしたら一次くらいは通るかもしれない。いや、落ちるかもしれない。でも、結果なんてもうどうでもよかった。

    俺はゆっくりと、ファイル選択を解除し、ページを閉じた。胸の奥が、ほっとしたように温かく、でも少し痛んだ。

    きっと母ならこう言う。

    ──その話は、あんたが持っときなさい。誰かにあげるもんじゃない。

    俺はPCを閉じ、深く息を吸った。窓の外では、街灯の光が雪のように静かに舞っている。

    その明るさの中で、母の笑顔がうっすら浮かぶ気がした。

    応募はやめよう。
    この物語は、俺と母だけのものだから。

    そしていつか、また別の物語を書く日が来たらいい。
    あのやわらかい手に背中を押されるように、そっと。


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