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受け身【創作】

    財布野紐ゆるみ

    かつて中学の体育で柔道をやったとき、私は受け身だけは上手だった。

    中学には、プールはないくせに柔道場だけはあった。普段は馴染みのない畳がある中での活動、というのが新鮮だった記憶がある。

    畳の上に身体を投げ出されると、背中を打つ直前に腕で畳を叩く。そうすると、痛みが少しだけ分散される。前回り受け身も、後ろ受け身も、先生に褒められた。

    ただし、あいにく「柔道部に入りたい」と思うというほどの熱意も運動神経も、私は持ち合わせてはいなかった。

    はじめての柔道の授業で「受け身は大事」だと聞いたから。そればかり練習していたというだけ。

    投げられることは、避けられない場合がある。だったら、せめて怪我をしないようにする。私はその考え方を聞いたとき、なるほどと思った。

    もともと、いろんなことに対して勝とうとしない弱い私は、いつも受け身の姿勢だった。友人からは、よく言われた。

    「もうちょっと自分から行けばいいのに。」
    「受け身じゃ何も始まらないよ。」

    思うところがあるときにも、手を挙げたり、声をかけたりする前に、一瞬怯んでしまう。気づけば空気は流れていて、私の気持ちは一緒にしぼむ。

    大学のころも、会社に入ってからも、似たようなことを言われた。

    好きな人ができても、こちらから食事に誘うことはなかった。相手から誘われれば行くし、連絡が来れば返す。来なければ「来ないな」と思って、それでおしまい。

    だから、今まで恋愛らしい恋愛をした記憶があまりない。

    中学時代の柔道の授業でも言うまでもなく、組んだ相手を抑え込んだり、投げ飛ばしたりといった記憶はない。

    受け身の練習だけで、終わった。

    私は大事なところで、たぶん少し、ずれている。

    * * *

    会社のレクリエーション大会があったのは、土曜日だった。

    普段は話さない部署の人たちとも一緒になって、フットサルをしたり、バーベキューをしたりした。

    私はそういう行事があまり得意ではない。フットサルは自分がどの場所にいるのが正解かがわからないし、バーベキューではみんなの食べる量を考えながら焼く作業に疲れてしまった。

    それでも行ったのは、好きな人が参加すると聞いたからだ。

    黒木さん。彼は営業部の人だった。

    私より少し年上で、話しかければ普通に話してくれるし、仕事の相談をすれば親身になって答えてくれる。彼の冗談に私が笑うと、決まって彼は目尻に少しだけ皺を浮かべた。

    そういうところが好きだった。

    私の職場のデスクには、彼が書いて渡してくれた付箋のメモが今も入っている。色気もなにもない、ただの業務上のメモ書きだ。

    なにかあるたびにそれを取り出しては眺め、彼の文字を指の腹でなぞった。それで、幸せだった。

    この恋には、受け身でいるしかない事情があった。

    彼には妻がいる。

    踏み出せない私の性格上、間違いが起きようもなかった。逆にそれが居心地よく感じられる理由だったのかもしれない。

    そのレクリエーション大会の帰り、何人かで駅まで向かった。

    途中でコンビニに寄る人やさらに別の店に行こうという連中がいて、私はそこで別れた。

    * * *

    翌週の月曜日、昼休みに同じ部署の女の人から話しかけられた。

    「この前の帰りさあ。」
    「うん。」
    「実は、ちょっと言いたいことがあるんだけど。」

    わざとらしく手のひらを顔の横にかざしながら、彼女は周りを見た。

    「誰にも言わないでね。」
    「うん。」
    「絶対だからね。」

    いつも不思議に思う。「誰にも言わないほうがいい情報」のはずなのに、なぜだか昔から、私のところにはそういった噂話が集まった。私からは特に誰にも話さないから、別に構わないのだが。

    彼女は、手元のスマホを見せた。

    画面には、誰かとのメッセージのやり取りが表示されている。口にするのが危険なくらい、大きな話なのだろうか。

    メッセージのやりとりは、レクリエーション大会の帰りの時間帯のものだった。視線で、文字を順に追う。

    「えっ……。」

    思わず声が出た。営業の黒木さんの名前をそこに見つけて、胸がひとつ跳ねる。いつも通り、社内恋愛の話なんかだろうと張っていたが、少し事情が違った。

    表情を見て、私が理解したと察したのだろう。彼女はスマホをしまった。

    「車の中で見ちゃってさ。ふたりで乗ってて。」
    「車で……。」
    「駐車場で。なんか、いちゃついてた感じだった。」

    私は黙っていた。黒木さんと一緒にいたのは、庶務課の中道さんだという。メッセージに添付されていた写真は、画質は粗かった。それでも、たしかに私にもそう見えた。

    「ま、フツーに送ってもらってただけかもしれないけどね。」

    彼女はそう言ったけれど、それは意味のない保険だった。本心が別のところにあるのを隠そうともしていなかったと思う。

    とはいえ、決定的なものではないのかもしれない。第一、黒木さんだけでなく、中道さんも既婚者だった。

    「でも、まあ、たぶんそういうことだと思う。」
    「そっか。」
    「だから、誰にも言わないで。」
    「うん。」

    私はそう約束した。

    彼女はじゃあねと手を振って去っていった。噂話が好きなだけで、悪い人じゃない。私の気持ちも知らないし、純粋に誰かに話したかっただけだろう。

    それから、その話は誰にも言わなかった。

    誰にも。

    別にいつもと変わりない。どうせ触れられないとわかっていたものに、近づけない理由がひとつ増えただけだった。

    * * *

    それでも、仕事には身が入らなかった。

    彼の姿を見ると、昨日までとは違うものに見えた。普通に同僚と話し、コピー機の前で笑っている。昼休みにコンビニの袋を持って歩いている。

    それだけなのに、私はそのたびに、あの話が脳裏をよぎった。

    車。ふたり。そして、画質の粗い写真。

    でも、本当にそうなのかは分からない。私はその場を見ていないから。スマホの画面に映っていた彼女の友人とのやり取りだって、断片的なものだった。

    それでも、一度知ってしまうと、知らなかったころには戻れない。

    ある日、昼休みに彼が私の隣を通った。

    「お疲れ。」
    「お疲れさまです。」

    それだけ言って、私は彼の背中を見送った。そのあと思わず、庶務課の中道さんが近くにいないか探してしまった。

    別の人から、同じ話を聞かされたのはその日の午後だった。今度は他部署の女性だった。中道さんの話題が出たときに、話がそちらへ流れた。

    「あのふたり、前から有名だよ。」
    「え?」
    「知らなかった?」

    私は首を振った。知らない、の意味だった。

    「けっこうみんな知ってるよー。」
    「そうなんだ……。」
    「まあ、本人たちが認めてるわけじゃないけどね。お互い既婚だし。」

    その人は笑った。笑えるような、軽い話なんだろうか。

    「でも、知らなかったんだね。」
    「うん……。私、そういうの疎くて。」

    そう笑ってごまかした。苦笑いを悟られまいと、必死で顔を作っていた。

    * * *

    仕事が終われば家に帰り、タブレットで動画を見て、風呂に入り、ベッドで眠る。

    変わらない生活の中で、思考だけがぐるぐると渦巻いていた。

    本当に好きな人で、誰にもとられたくなくて。そういう場合、踏み出せる人だったらどうするんだろう。

    本人に、想いをぶつけるんだろうか。相手の恋人や、奥さんに話をつけにいくんだろうか。

    それでも私は、誰にも言わなかった。「言わない」と約束したから。

    誰かに話してしまえば、少しは楽になるのかもしれない。でも、それはできなかった。

    彼女が私に見せたスマホの画面が、今も頭の中に残っている。

    黒い文字に白い画面。その中にあった、ふたりの名前……。

    たとえ他の多くの人が知っていたとしても、私からどこかに出すのはやっぱり違うと思った。

    デスクの中の付箋を、一度だけごみ箱に捨てようと取り出したことがあった。それでも私は、そこに書かれた文字を見つめているうち、捨てようとしていたことを忘れてしまった。結局、そのときも指で文字をなぞっていたと思う。

    * * *

    その日、仕事帰りにいつもと違う道を通った。

    特に理由はなかった。なんとなく、駅とは反対側の道に足が向いた。一本通りを挟んだ向こう側は、街の表情が少し変わる。

    普段なら明るい道を歩くのに、今は照明の少ない通りを歩いていた。このまま行けばディスカウントショップがある。けれど、そこで買いたいものはない。

    少し先に、車が停まっていた。見覚えのある車だった。

    私は足を止めた。ちょうど、道を照らす光が途切れた、暗い場所だった。

    あの人の車だ。そう思った。

    車種なんてわからない。画質の粗いデータ上の、色と形で覚えていた。私は光の当たらない場所から、車内の光景を見ていた。

    運転席に黒木さんがいた。助手席には、中道さんがいた。

    ふたりで何か話して、笑っている。

    私はその場に立ったまま、見ていた。

    ああ。やっぱり、そういうことだったのだ。

    私は、デスクの中の付箋を思い出した。指を撫でる、少しざらついた感覚。それが、紙質のせいか、私の指の乾燥のせいかは、わからない。

    でも、間違いではなかった。そう思った自分が嫌だった。

    車が動き出した。私は少し移動して、歩道の端に立つ。そこはまだ、暗い場所だった。

    「誰にも言わないでね」。

    あのときの同僚の声を思い出した。

    言わない。それは守る。

    道路を見ると、他にも車が走っていて、歩いている人もいた。彼の車が、ゆっくりと動き出し、こちらに向かってくる。

    ふたりはどこに行くんだろう。私は、どうしたいんだろう。

    私は暗闇の中、片方の足に力を入れて、姿勢を低くした。

    * * *

    車は、思っていたより速かった。急に近づいてきたので、怯む一瞬すらもらえなかった。

    私は、車道に飛び出していた。次の瞬間、身体が浮いた。腰のあたりに受けた強い衝撃と、ブレーキの音はほとんど同時だった。

    何が起きたのかわからなかった。道路と歩道と空が、視界にあるすべての光と闇の中で混ざるように回転した。

    身体が落ちていく間に、体育の先生の声を聞いた気がした。

    腕を叩け。背中から落ちるな。

    私は、とにかく何かを叩いた。

    地面だったのかもしれない。車だったのかもしれない。あるいは、自分の身体だったのかもしれなかった。

    大きな音がして、脳が揺れた。

    トン、と当たるくらいなら、少し痛いだけだと思っていたのに。

    思っていたより、ずっと重かった。

    誰か、男の人が叫ぶ声がした。車のドアが開く音が続く。

    私は地べたにへばりついたまま、薄目を開けて、ぼんやりと考えていた。

    私は。

    誰にも言っていない。約束は守った。ちゃんと。……だから、私は悪くない。

    身体のどこかが痛かったけれど、どこなのかは、もうわからなかった。自分はどんな格好で横たわっているのかすら、想像がつかない。

    遠くから、救急車の音が聞こえてくる。

    あの人が、呼んでくれたのかな。

    やっぱり。受け身は、大事だった。

    動かない身体の中で、口角だけが上がる。

    そして私は、目を閉じた。


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