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リード【創作】

    司がリードを持ち上げると、シンはくるりと跳び、宙を舞った。

    「ちょ、待て待て。暴れすぎ。」

    ぐいぐい引っ張られながら、司はスニーカーのかかとを踏み潰したまま振り返る。

    「こいつの散歩行くけど、お前も来る?」

    机に向かっていた僕は、シャーペンを動かす手を止めた。

    リビングの時計は七時前。問題集のページは、まだ半分くらい残っている。赤ペンで丸が多く付いたページもあれば、途中で消しゴムをかけて、紙のよれた跡が目につくページもあった。

    「でも、勉強。」

    僕がそう言うと、母の声が台所から飛んできた。

    「そうそう。律は来月模試なんだから。」

    シンは玄関で鼻を鳴らしている。司は、あーあ、とわざとらしく言ってリードを短く持ち直した。

    「模試、模試って亀じゃあるまいし。シンも、エネルギーが有り余って、ストレスも溜まるよな。」
    「変なこと言わないの。司、ひとりで行ってきて。」

    油のはねる音がして、母がそちらに意識を向ける。今日の夕飯は生姜焼きらしい。僕は問題文に視線を戻した。

    次の文章を読み、設問に答えなさい。

    でも、全然、頭に入ってこない。温かいお茶を飲んでも、ぼうっとしてしまう。玄関からはシンのぱたぱたする足音と、司の「引っ張んなって」の声が聞こえていた。

    母はフライパンの前から動かない。ふと母の右手首に目をやると、湿布の端が少しだけ見えていた。昨日の朝も、「腱鞘炎かな」と言いながら、手を冷やしていた。

    シャーペンを置き、席を立つ。

    「……やっぱ、行こうかな。」

    台所で、音が一瞬止まる気配がした。

    「え?」
    「犬の散歩。」

    母が振り向く。

    「でも勉強は……」
    「十分だけ!」

    司が玄関から顔を出す。

    「お、珍し。行こうぜ。」

    シンだけが一番うれしそうだった。こいつは多分、外に出られるならなんでもよかったんだと思う。

    リードを預かると、司が「お、大丈夫か」と僕に声をかけた。

    外は、昼間の熱気が少し残っていた。散歩のルートは決まっている。車通りの少ない、木の生えた川沿いを、ぐるり一周するというものだ。

    犬は犬だった。家を出た瞬間から、本気だ。よーいドンの掛け声もないのに、華麗な飛び出しを決めた。

    「うわ、待っ……!」

    僕の腕が前に引っ張られる。司が笑いながら、遅れてリードを取り返す。

    「だから言ったろ。こいつ最近、容赦ないんだって。」

    ぐい、と短くリードを引く。シンが不満そうに振り返る。

    「舐められたら終わりだぜ。」
    「……前は、ここまで力強くなかったのに。」

    そう言いながら、最後にシンの散歩に出た日を思い出していた。あのときも、たしか司と一緒だった。

    「塾、通い始める前だよな。」

    シンはまた前へ進む。司の腕が少しだけ強く張った。川べりの街灯の下で、その手が視界に入る。手の甲には、薄い引っかき傷があった。

    僕は聞いた。

    「……母ちゃん、いつもこれやってんの。」
    「ん?」
    「散歩。」
    「ああ。」

    司はあっさり頷く。

    「最近、手痛いって言ってた。」
    「そうだな。」
    「……知ってるんだ。」
    「見りゃわかるよ。」

    司は、犬が木の匂いを嗅ぎ始めた隙に、肩を回してきた。久々に回された手は、がっしりとしているように感じた。

    「だから最近、俺が多めに行ってる。」

    何も言わなかった。父は仕事で遅くまで帰らないし、僕は学校のあとの塾、塾でたくさん出される宿題に追われて、疲れて寝てしまう。

    「兄ちゃんは遊んでばっかり、って母ちゃんは言ってたけど。」
    「それはそう。お前と比べると、すげー遊んでる。」

    道は静かで、暗かった。川の向こう側まで、司の乾いた笑い声は届いたと思う。

    折り返しの角を曲がる。向こうに、コンビニの明かりが見える。シンは、道を迷わない。リードを握った、僕と司の前を堂々と行く。

    受かるかどうかも分からない学校の場所。まだ地図で見たこともないのに、と思った。

    司が、急に口を開く。

    「志望校さ。」

    僕の足が少しだけ止まる。

    「……なに。」
    「ほんとに行きたいのか?」

    犬の爪がアスファルトを鳴らす音だけが、少し先に響いた。

    「圏内って聞いたけど。」
    「塾の先生が言ってただけだよ。」
    「へえ。」

    司は、あまり興味なさそうに相槌を打つ。

    「近所の私立の方なら余裕じゃん。近いし、共学。言うことなくね?」

    僕は笑わなかった。

    「それでも俺の行ってる公立よりは、よっぽど頭いいし。母ちゃんも文句言わないと思うけどな。」

    面談から母とふたり、帰ってきた日のことを思い出す。

    「このまま努力すれば、十分狙えますよ。」

    講師の言葉。「狙えますよ」はどこか他人事みたいに聞こえた。それでも母は、模試の結果のレーダーチャートを見て、うれしそうにしていた。一方僕はそのチャートの、凹んだ部分にしか目が行かなかった。

    「……母ちゃんが、その方がいいって。」

    司は少し黙った。シンが電柱の方に向かおうとするのを、また短く引き戻す。

    無理をして、背伸びをして。行った先で落ちぶれやしないかという不安は、正直あった。そういう人の話を、前に読んだことがある。

    先のことまで考えれば、分相応の偏差値の学校に行くべきなのかもしれない。

    「ふーん。」

    司は、それだけ言ってから、こう続けた。

    「でもなあ。お前最近、寝れてるか? なんかずっと疲れてないか。」

    はっとした。

    自分でも気づいていた。寝ようとして電気を消しても、寝返りをうつばかりで、ちっとも眠りにつけない。夜中に何度もトイレに向かう日が続いていた。

    「俺から、母ちゃんに言ってやろうか。」

    思わず顔を上げた。司の声は軽かった。いつもの冗談みたいに。でも、本気も半分くらいは混ざっていた。久しぶりに聞いた、頼れる兄ちゃんの声だった。

    コンビニの前を通り過ぎる。レジ横の棚に、焼きそばパンが見えた。塾の帰り、母がたまに買ってくれるやつだ。

    「律は頑張ってるから。司には内緒ね。」

    そう言いながら渡してくる、少し潰れた包装。パンの種類がちょっとだけ高価で、美味しいやつ。

    昔虫歯になって苦労したから、歯を磨くようにと僕ら兄弟に口酸っぱく言う母。「公立でもどこでも勉強はできる」という、小六のときの司の担任の言葉を受け入れたことを、未だに引きずっている母。

    僕は、兄から目を逸らした。

    「……いや。」

    シンがまた、前へ進む。

    「自分から、話してみるよ。」

    司はすぐには返事をしなかった。少ししてから、「そっか」とだけ言って、リードをほんの少し、僕の方へ渡した。

    そのリードを握る僕の手に、きゅっと力が入る気がした。

    犬だけが、何も知らない顔をして、暗くなりはじめた道をまっすぐ引っ張っていった。


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