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黄色い看板【創作】

    財布野紐ゆるみ

    俺は、もうずっと「有名な料理人」だった。

    フランスで修行もして、半世紀近く料理業界にいる。昔の店は何度か料理雑誌に取り上げられたし、新聞に俺の名前が載ったこともあった。

    わざわざ俺の料理を食べに遠方から来る客もいたし、厨房に立つ姿を撮った写真は今でも残っている。

    若いスタッフが包丁を使う音が心地いい。俺が教えた通りの、無駄のない音だった。昔なら自分がやっていた仕込みを、今は若い人間が同じやり方でこなしている。だからこそ、今なお俺の名を求めて訪れる客がいた。

    和風と洋風を組み合わせた独自のレシピ。飲食業界自体の勢いはやや下降気味だが、なんとかやっていけている。店舗経営の傍ら、動画サイトでレシピや料理動画を公開し、そこから書籍化につながったこともあった。

    駅は近いしライバル店も多くない。向かいにオムライスのチェーン店があるくらいだ。実際の卵の色よりも、ずっと明るい黄色で塗られた看板。そこには「ふわふわオムライス大学」と書かれていた。

    しかし、レシピの数では負けても、オムライスの味や技術で勝負すれば、こちらが上だという自信があった。長年かけて、心血注いで培ってきたものは簡単には揺らがない。

    六十五の頃。任されていた店を辞めた。若い料理人たちは俺の古いやり方には飽き飽きしていたようだし、俺が厨房に居座り続けることで奴らの成長の邪魔をしてもいけない。

    去ることは選べても、料理人という肩書きを捨てることはできなかった。小さな店でも、構えていられればその間はプロの矜持を捨てないで済む。

    * * *

    ある日、店のSNSアカウントに「食の研究所」というアカウントからフォローされた。

    個人名でないそのアカウントの詳細を確認すると、やはり複数人で運営しているコミュニティのような活動内容が書かれていた。

    プロの料理人による審査、月額会員制。会員限定のオリジナルレシピ考案のお手伝いや、完成した料理の講評。そして、創作レシピ大賞という、会員のみ応募できる賞の主催。

    プロフィール画面には「あなたの料理を次のステージへ」という謳い文句が踊っていた。

    俺はその中の「プロの料理人」という言葉に引っかかりを覚えた。プロならば、実績が公開されているはずだ。

    「食の研究所」のアカウントから、専用のサイトに飛んだ。しかしそこには、厨房の住所も出ておらず、運営者の名前すらはっきりしない。簡単な活動報告とコンタクトフォームくらいしか置かれていなかった。

    大きくため息をつき、少し遅れて怒りがふつふつと沸いてきた。

    「こんなもの、料理の世界を知らない人間が作った看板だ。」

    そう考えた。

    今まで、下働きから数えて何十年もの間、いくつもの厨房を見てきた。調理の工程を何千何万と経験してきた。どの店で何年間、皿を提供してきたのか。それがプロ料理人としての経歴だ。

    俺は、そのSNSに辛辣な批判の記事を書いた。

    「料理人なら、自分がどこの店で修業したかを隠す必要はない。」
    「店を持っているなら、住所があるはずだ。」

    元のアカウントを引用し、厳しい言葉で糾弾した。

    ところが。俺が批判記事を書いた翌日、その「食の研究所」から一通だけメールが届いていた。

    「あなたのおっしゃる通り、私たちは料理店ではありません。」

    認めて謝罪するなら、まあ良い。

    それみたことか。

    勝ちを確信していたところ、スクロールすると続きがあった。

    「ただ、必ずしも料理店である必要もないと思っています。」

    そこからは、彼らの活動理念や意図をつらつらと説明していた文章が残されていた。

    料理学校でもレストランでもないこと。「料理について話したい人間が集まる月額制の小さなコミュニティ」を目指していること。

    「もしかすると、あなたのプロの定義からは外れるかもしれません。しかし、料理の批評をしたり、レシピを読んだり、料理人に感想を伝えたりすること自体には、資格はいらないと考えています。」

    プロという言葉の重みについては、今後あらためて考えサイトやSNSでの案内の表記を検討したい。……そんな言葉で、文章は終わっていた。

    そのSNSの投稿記事で使用できる文字数ぎりぎりの文量だった。

    読み終えて、なんともいえない気持ちが胸に残る。丁寧な説明を受けても、違和感は完全には拭い去れなかった。

    実績もほとんど見えない。それなのに、「プロの料理人があなたを導く」という言葉だけは、妙に大きく表示されている。

    詐欺とまでは言えない。そこまでの証拠はない。ただ、俺にはどうにも、肩書の使い方が気に入らなかった。

    パソコンで別のページを開く。いつもの売上データの打ち込み作業をどこまでやったか、すっかり忘れてしまっていた。

    * * *

    その翌日のことだった。昔の友人の料理人が、予約をとって昼に店に来てくれた。ピークを過ぎた平日の時間帯で、少し話す余裕があった。

    皿を運んでから、俺は彼に昨日の一件について愚痴をこぼした。注文は、お任せで、というのでそいつの好きな肉料理にした。スパイスの効いたソースの香りがテーブルの周りを覆う。

    肉をナイフで切り分けながら、友人は言った。

    「お前の言ってることも、まあ分かるよ。俺もプロだからな。」

    そうだろう、と頷きかけたところで、友人はさらに続けた。

    「ただな、そのコミュニティ、俺も入ってるよ。」
    「お前が?」

    たったの一言で、裏切られる。あそこは、プロの料理人が参加するような場所ではないはずだ。驚いている間に、友人は皿の肉を口に運んだ。

    「良い意味で、プロっぽくない料理に触れるのもたまには悪くない。」
    「しかし! プロでもないのに料理人などと。」

    友人は微笑んだ。

    「でも、彼らが料理人じゃないことと、彼らのところで料理が楽しくなった人がいるってことは、別の話だよ。」

    食器の音は、ほとんど聞こえない。俺が黙っていると、彼が言葉を続けた。

    「例えば、向かいの『大学』あるだろ。」

    店内からも、看板が見える。「ふわふわオムライス大学」のことだ。

    「あれを見て、本物の大学だと思って入学する奴がいるか?」

    くだらない問いだった。友人は、笑っている。俺は、呆れながら言った。

    「……あれは店名だろう。」
    「そうだな。名前や肩書なんて、案外いい加減なもんだよ。」

    友人はスプーンで、残ったソースをひとすくい口に運ぶ。そして、形をくずした紙ナプキンのテーブルに置いた。

    * * *

    閉店前の時間に、もう一度「食の研究所」のサイトを開いた。厨房からは火の気配が消え、水の流れる音がここまで届いていた。

    ページをひとつずつ確認する。やはり、プロとしては受け入れられない。いい加減な実績開示に、権力をちらつかせて集客する構図。

    しかし、同じ料理人である友人は、彼らを認めているという。

    参加メンバーのコメントを集めたページがあった。表示されているのは年齢、性別、アカウント名、そしてアカウントのアイコン。

    それぞれの言葉で、前向きな意見を残していた。

    「初めて自分のレシピにコメントがつきました!」
    「家族に振る舞ったら、喜ばれました。」
    「大賞には落ちたけど、自信のあるオリジナルレシピを見てほしいです。」

    俺からすればこんなものは、騙されている愚か者の声だ。料理教室以下の素人の集まり。

    「料理のことを話せる人が欲しかったので、ここに入ってよかった。」

    最後のコメントから、しばらく目が離せなかった。たまたまだろうが、年齢層と性別は、昼に話した友人と同じだった。

    席を立って、店舗の入り口のプレートをCLOSEDに掛け変える。ふと後ろを振り返ると、あの黄色い看板が暗くなった通りに浮いていた。

    夜に見ても、卵の色よりも明るい黄色だった。


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