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光の方へ【創作】

    財布野紐ゆるみ

    「今夜は去年と違って、屋台が出ます」。

    ポスターに添えられたその一文だけで、効果は十分だった。

    人が増える。滞在時間が増える。ゴミも増える。声も増える。全部が全部、去年より一段良くなって、一段悪くなる。

    海沿いの会場は、すでに人で埋まり始めていた。俺は腕時計を見て、ぞっとする。わざわざ確認するまでもなく、まだ日の出ている時間帯だった。レジャーシートは、ぱっと見では等間隔に敷かれている。しかしそれも、最初だけだ。すぐに歪み、ひとつズレると、全てがズレる。

    「Bエリア、少し詰まり始めてます。」

    インカムの向こうで、誰かが言う。ノイズが混じって、語尾が削れる。

    「了解。流して。」

    短く返す。自分の声も、つられて少しだけ色を失う。俺はあたりの人の動きを目で追っていた。流れを読み切る前に、あたりは暗くなり始めてくる。

    ──去年と同じ現場で、ここまで違うのか。

    入口付近では、すでにちらほらと立ち止まる人も見受けられる。案内板を見上げているのか、ただ立ち止まっているのか、判断がつかない。どちらにしても、後ろが詰まる。

    「立ち止まらないでくださーい。奥までお進みくださーい。」

    スタッフの声が、同じ高さで繰り返される。抑揚がない。平坦な繰り返しの言葉は、意味を失ってただの音になりつつあった。

    動かない。

    前にいる男は、スマホを見たまま、親指だけ動かしている。誰かと肩がぶつかっても、顔も上げない。後ろの家族連れは、どこに行けばいいのか分からず、子犬のように小さく回転している。ひとつのエリアで人が詰まると、それが火種となって、のちに他のエリアで爆発を起こしかねない。

    「……あれじゃ、動かんよな。」

    小さく呟く。誰にも届かない。かといって、身体は持ち場以外に回せない。

    「Bエリア、止まってます。全然流れません……!」

    別の声。少し苛立っている。視線を上げる。確かに、流れが途切れている。人の塊が、蚊柱のように。そこだけ、固まっている。

    外虫駆除のライトを思い出す。誘蛾灯だったか。無料で見られる花火に引かれてやってくる人。たとえは悪いが、ぴったりだと思った。

    告知していた花火の時間が迫るにつれて、徐々に人の顔にも焦りが浮かぶ。どうしても、人の生む熱気にあてられて余裕を奪われる。

    そのとき、隣にいた警備会社のベテランが、マイクを取った。うちの会社で担当するイベントでも、よく見る顔だ。

    「この先、混雑しています。後方の方がゆっくりご覧いただけます。」

    落ち着いた、低い声。言い終わる前に何人かが振り返る。少し間を置いて、さらに数人が動く。もつれていた流れが、ゆっくりとほどけていく。

    「ほら。」

    ベテランはマイクを戻しながら、こちらを見ずに言った。

    「全部本当じゃなくていい。流れは、こっちでつくってやればいいから。」

    さっきまで動かなかった場所が、少しずつ空いていく。完全ではない。だが、確かに変わった。

    なるほどな、と思った。さっきの警備会社の男の言葉に嘘はない。後方の方がゆっくり見られる。だが、きれいに見たいならばやはり前だ。

    開始の時間は直前に迫っていた。もう、敷かれたレジャーシートは重なり放題だった。座っていた者も、結局立ち見をしている。

    どこが見やすいかではなく、どこに隙間があるか。空いている方向へ、わずかに体をずらす。ずらされた体にぶつかった者も右に同じ。その繰り返しで、全体がゆっくり動いている。

    「こちら側が空いています。」

    マイクで、試しに言ってみる。

    数人が動く。その後ろが動く。波のように、時間差で遅れて広がる。嘘ではない。本当に、少しだけは空いている。

    ただ、それを言う場所は選んでいる。混雑を分散させたいからだ。

    インカムが鳴る。

    「Cエリア、子どもが押されてます。ちょっと危ないです。」

    そちらを見る。人の腰の高さに、頭が埋もれているのが見える。あれでは背伸びしても、何も見えないだろう。見えないだけならいい。混雑の中で転んだりすれば、命にもかかわる。

    また、少し離れたところで、手すりにもたれている老人が見える。前に出ようとして、やめている。波の力が強く、流れに逆らえないらしい。

    再びマイクを持つ。

    「正面が重なっています。左右に少し広がっていただくと、視界が開けます。」

    さっきと同じような誘導で、少しだけ強く促す。

    前列の何人かが、顔を上げて、迷う。定位置を決めかねていた層だろう。その間に、後ろが動く。押し出されるように、流れが変わる。

    完全じゃない。それでもまた、ほんの少し空間ができた。

    子どもの頭が、ひとつ、上に出る。老人が一歩だけ前に出る。

    それだけだ。しかし、それだけで十分だった。間に合った。花火が上がってからでは、人の動きは鈍くなったはずだ。

    インカム越しに、別の場所の指示が飛ぶ。

    「入口、止めてください。流入多すぎます。」
    「了解、少し絞ります。」

    口が勝手に動く。選ぶ前に、言葉が出る。

    「ただいま前方混雑しております。少し間を空けてご入場ください。」

    列が、ゆっくりと伸びる。止めてはいない。少し遅らせただけだ。

    時計の針が、定刻を迎える。花火が上がった。

    歓声が、少し遅れて広がる。

    誰もが空を見ている。その方向は、揃っている。多くの視線やスマホが、一斉に光を捉える。その一点に、引かれている。

    こちらから見れば、人はただの流れだった。どこで止めるか、どこで流すか。どこに言葉を置くか。それだけで形が変わる。

    「了解。」
    「問題ありません。」

    誰かが言い、誰かが動く。それが連なって、全体が動く。

    子どもも、老人も、その中にいた。それぞれ、連れとも合流して一緒にいるようだ。

    俺たちは、上がっている花火の方は見ない。さっき作った隙間が、埋まり切っていないことを確認していた。

    マイクを下ろす。手の中で、少し重い。さっきの自分の言葉が、まだ頭に残っていた。

    考える前に、次の指示が来る。足は、もう次の場所へ向かっている。誘導すれば、人はまた動く。

    光の示す方へ。

    ひと息ついたと同時だった。背中の方からひときわ大きな光と音が響く。俺は、やれやれと思いながら小声でつぶやいた。

    ……誘蛾灯だったら、みんな死んでるところだぞ。


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