メインコンテンツへスキップ
見出し画像

黄泉の時計塔【創作】

    財布野紐ゆるみ

    地獄は、絵本で読んだよりも穏やかなところだった。

    赤く燃える炎も、尖った岩も、誰かを脅かす影もない。ただ、生前の世界で浴びたことのない黄泉の風が柔らかく吹き、灰色の空の下で静かに時が流れている。私はその中を、ひとり歩いていた。

    道の両脇には、曼殊沙華が並んで咲いていた。
    花弁は淡く光を宿し、地獄に似つかわしくないほど、静かで穏やかな赤だった。私はその花を横目に、石畳の中央を歩いた。

    * * *

    記憶はほとんどない。

    自分の名前も顔も、どんな人生を生きたのかも、ぼんやりとしている。はっきりと理解できているのは、「ここが地獄である」というその1点のみ。理由は分からないが、なぜかそれだけは確信を持っていた。

    足元の石畳や風の匂いに導かれるまま、ただ、塔へ向かって歩き続ける。

    塔を目指したのは──何のことはない、近くに他に目指すべき場所も見当たらなかったからだ。

    時間をかけ、近くまでくると、どうやらそこは時計塔のようだった。
    黄泉の時計塔は、見上げるほどに高く、鉄と漆喰で組まれた歪な姿で空に突き出している。

    らせん階段を上ると、壁に掛かる古びた時計が時を刻む音だけが、静寂を破る。時計の盤には12よりもひとつ多い13の文様が刻まれており、針がゆっくりと回っていた。そしてそれが、私の心の奥に忘れたはずの感覚を揺さぶる。

    階段の途中で、突然、生前の記憶の断片が浮かんだ。

    誰かを傷つけた日、約束を破った日、笑いながら誰かを裏切った夜。
    ──胸の奥がざわめく。それは淡く、しかし確かに痛みを伴う。

    一瞬、引き返そうかとも思った。
    しかし、後ろを振り向くと、上ってきたはずの階段はもはや消え、大きな空洞と闇がこちらを覗いているのみだった。

    * * *

    頂上の文字盤の前では、何者かが待っていた。顔は影に隠れ、声だけが響く。黄泉の、守り人かなにかだろうか。

    「思い出すか。なぜ、ここにいるのかを。」

    その者は、こちらに向かって問いかける。
    ──いや、問いかけだったのかはわからない。

    目の前の時計の文字盤をさえぎっていたその体を横にずらし、どうやらそこを触るように促しているようだった。

    私は手を伸ばす。

    文字盤に触れた瞬間、過去の出来事が映像のように蘇る。
    人生の断片が順番に流れ、誰を愛し、誰を傷つけ、どんな嘘をついたか。最初はぼんやりとした記憶も、次第に輪郭を持ち、胸を締めつける。

    そして、最後の瞬間──すべてを思い出した。

    自分が、地獄に落ちるべくして落ちた理由を。

    それは、あまりにも小さく、些細で、でも確実な悪意の積み重ねだった。誰かを踏みつけ、誰かを欺き、自分の欲望のためだけに生きた日々。

    私は、思い出すことで自分を取り戻した。
    いや、あるいは、自分を失ってしまったのか。

    * * *

    塔を降りると、風景は最初と同じように静かだった。灰色の空の下、曼殊沙華の花が相変わらず並んで咲いている。

    私はもう、花を避けなかった。

    石畳を外れ、鮮やかな血の色の花弁を踏みしだきながら歩いた。かすかな光が足裏で散り、花の命が消える。そのとき確かに、胸の奥で熱を帯びる感覚があった。

    私は、振り返らない。

    地獄は穏やかで、しかし真実を隠すことはない。
    私は静かに、それを受け入れるしかなかった。

    黄泉の風は止み、代わりに嵐の気配が辺りを包み込んでいた。


    あなたへのおすすめ