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見積書【創作】

    財布野紐ゆるみ

    「すみません。正式な採択はまだなんですが、概算だけでもお願いできませんか。」

    通話の向こうで、小さく息をつく気配がした。長年の付き合いのある取引先同士で、お互い多少の無理を言っても、通し合う関係性だった。とはいえ、ちょっとは負い目がある。

    「いいですよ。ただ、補助金が決まる頃に同じ金額だという保証は……。」
    「承知しています。その前提で構いません。」
    「じゃあ、一度作ってみます。」

    オフィスの外の窓からは、まだ明るい夕焼け空が覗いている。しかし、先方の企業でも定時はとうに過ぎているだろう。

    「ありがとうございます。本当に助かります……。」

    通話を切り、しばらく社用スマホの画面を見つめる。取引先へ見積もりを依頼し、事情を説明し、頭を下げる。その繰り返し。今日だけで、三社目だった。

    政権が変わったことで、うちのクラウドシステムも国の新規事業補助金の対象になるかもしれない。

    公算は高くはないだろう。しかし社長は、その「かもしれない」に賭け、概算請求することに決めた。

    方針が決まった日の会議室では、「今のうちに動こう」「可能性はゼロじゃない」、そんな言葉が飛び交っていた。

    俺は議事録を取りながら。頭の中に広げたカレンダーから、別の予定を消していた。

    来週の日曜日、予約しようと言っていた店。「デザートまで食べようね」
    と笑っていた妻の顔が浮かぶ。

    他にも、夕方の散歩。平日、情報を取り込み過ぎた目と脳を休めるため始めた習慣。始めてから、頭痛と肩こりは少し軽くなった気がしている。

    そして、寝る前、何も考えずにソファに座る時間も。

    まだ失ってもいないはずの時間だった。それなのに、前倒しになった会社の業務で、想定していたスケジュールが次々と押し出されてくるような感覚。

    その日から、帰宅しても仕事のことを考えるようになった。見積書を集めるには、他にどの会社へ声を掛けるべきか。金額の調整で融通を利かせてくれる会社、海外の自社工場で半導体関連の資産をストックしている会社、相見積もり依頼をするならどちらがよいのか。

    概算で出してもらうなら、どこまで条件を書くべきか……。

    見積もりを集めきる前から、様式を確認して資料作成にも取り掛かっていた方がいい。

    上司への確認、経理との連携、最終的な社長の決裁。修正依頼の差し戻しを考えると、どうあっても今週中に叩き台を作っておくことはマストだった。

    風呂に入っていても、信号待ちでも、眠りかけても。思考だけが会社の自席に取り残されていた。

    ひとり暗闇でPCに向かって作業を続ける自分を遠くから見つめている夢を見た。起きてからも、ああ、どうせまたあの暗い部屋に戻るだけだと思った。

    身体だけ帰宅している日が続いた。いつしか食事中、心配そうにこちらを覗き込む妻の顔からも、目を逸らすようになった。

    出社して、メールを確認する。

    一通目、二通目。三通目……。

    添付されているPDFを開く。会社名、金額。有効期限。仕様詳細に、備考欄。相手のメールの送付日時は、今の自分ですら稼働していないような遅い時間だと、つい口元が歪んだ。

    「正式仕様確定後、再見積りとなります。」

    どの見積書にも、似たような一文が添えられていた。見積書内になければ、メール文面内にただし書きがある。

    当然だった。まだ何も決まっていない。

    制度も、仕様も、開始時期も。提出予定の概算請求資料だって、原案すら組まれていない。進めたのは、全体を読み、他部署へ確認が必要な事項の多さにため息をついたところまでだ。

    確かなものは何ひとつなかった。それでも誰かが時間を使い、数字を積み上げてくれている。

    コピー機から出てきた紙は、思ったよりも軽かった。

    画面の横に、印刷した見積書を並べる。枚数が増えるたび、仕事が前へ進んでいる気がした。同時に、自分の中から何かが減っている気もする。

    ふと、見積書という名前が可笑しく思えた。

    金額だけじゃない。そこへ載っているのは、誰かが捻り出した数時間だ。電話で話した担当者の戸惑うような声が頭に戻り、俺の胸を突く。

    要求仕様を読み、社内確認し、ときには別の仕入れ先へ在庫や条件確認を依頼し、数字を計算したうえで上司へ見せ、メールを送るまでの時間。

    発注するまで、支払いは発生しない。だが、見積が「無料」で出来上がるわけがないなんてことは、この仕事を始めるずっと前からわかっていた。

    誰かの時間が、ぎゅっと押し固められて、一枚の紙に変わる。

    俺も同じだった。

    休日の昼食、散歩。何も考えない時間……。そういうものを細かく削って、この申請書へこれからくっつけていく。自分が切り絵になって、申請書に身体の一部を貼りつけていくところを想像した。今夜は、そんな夢を見そうな気がする。

    画面には、新しいメールがまた一通届いていた。

    件名:概算御見積書、送付いたします

    開く前に、目をつぶって意識を集中させ、クリックした。

    相も変わらず、備考欄に条件の文言が並んでいる。

    「こちらの金額では、パレット納品必須となります」。

    思わず笑った。うちの会社には、フォークリフトも、そんな方法で荷受けのできる場所もないのに。

    相手としても、苦肉の策だったのかもしれない。

    俺は礼のメールの文章を打ち始めた。暗い部屋で、ひとり残って作業をしているのは、夢で見たのと同じ。

    しかし、少しだけキーを叩く音が軽いような気がした。


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