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服用前にお読みください【創作】

    財布野紐ゆるみ

    封筒は、思っていたより薄かった。

    あの日、薬品の匂いが染みついた部屋で、何度も認証番号を口にした。採血やらカウンセリングやら、諸々の手続きを終えた結果は、この厚さの中に全部詰まっているらしい。

    A4よりひと回り小さい白い封筒で、差出人は「生活選択支援局」とだけ印字されている。配達員はいつものように判子をもらって帰り、インターホンの履歴だけが玄関の静けさの中に残った。

    封筒を持つ左手の指輪が、紙に小さく当たった。私の指はひび割れているのに、封筒の冷たさだけはちゃんと伝わってくる。

    「来た?」

    台所から、妻が声をかける。

    「ああ。」

    私は封を切らずにテーブルへ置いた。妻は湯のみをふたつ運んできて、その封筒を見つめた。

    どちらも手を伸ばさない。

    「先にお茶飲もうか。」
    「そうだな。」

    片手鍋から、湯の沸く音が立つ。湯気だけが、ふたりの間をゆっくり通った。

    * * *

    茶を啜ると、熱いものが喉を通った。少し渋すぎるくらいの茶の香りが鼻を抜ける。だが、それがちょうどふたりの好みの味だった。

    封筒の中に入っていたのは、一冊の冊子だ。表紙には余計な飾りもなく、黒い文字だけ。

    「服用前にお読みください」。

    その下に小さく書かれている。

    この冊子は、薬を受け取る予定の方だけに配布されます。服用後には読むことができません。必ず服用前に最後までお読みください。

    「ずいぶん念押しするね。」

    妻が笑う。

    「飲んだあとじゃ、遅いからだろ。」

    私もつられて笑った。思ったより普通に笑えたことに、お互い少し驚いた。ここのところ、ふたりとも体調が良い。

    最初のページ。

    この薬は、処方を受けた本人にのみ作用します。
    他者が服用しても効果はありません。
    他者へ譲渡することはできません。

    「私のを、あなたが飲んでも意味ないってことね。」
    「そういうことだな。」
    「変なの。」

    妻はページをめくる。

    本冊子は途中で読むことをやめても構いません。
    ただし、服用を決める場合は最後までお読みください。

    「これも変よ。」
    「なんで?」
    「途中で読むのをやめる人なんて、いるのかしら。」

    私は答えなかった。いるから書いてあるんだろう、とだけ思った。今さら左手の熱さに気づいて、湯呑みを茶托に預けた。

    ふたりが申請書を書いたのは、一年半前だった。そして、製造された各々の薬の処方が決定したのが、ようやく一か月前のこと。

    申請書は書いて、出して、それから「まだです」という内容を言い換えただけの通知が何度も届いた。その間に春が来て、夏が終わり、秋が過ぎた。

    承認を待つ時間は、時計の音がいつもより少し大きく感じた。

    急がない理由はない。ただ、急がなければならない理由も、もう残っていなかった。

    * * *

    冊子の第二章。

    大切な人と話してください。

    妻はそこで読むのをやめた。このとき、ふたりでひとつの冊子を一緒に読んでいたことに気づく。冊子はちゃんと、ふたり分あるのに。

    「私たち……大切な人って、誰になるんだろう。」

    私は考える。

    「……そりゃ、お互いだろう。」
    「それ以外よ。」

    答えは出なかった。父は四年前。母はその翌年。妻の両親も、そのあと続いた。実家へ帰る、という言葉だけが残って、肝心の帰る家はなくなった。

    ペットを飼える部屋を借りましょうか、という話が妻から出た。しかし、話が出ただけだった。

    「ねえ。」

    妻が言った。

    「結婚式、やればよかったね……。」

    私は笑った。

    「今さら?」
    「今さら。写真だけでも……。」
    「うん……。白いの、着たかった?」
    「一回くらい。」
    「似合ったと思う。」
    「見てないのに?」
    「見てなくても分かるさ。」

    妻は笑った。

    「ずるい。」

    妻と出会ったのは、三十代後半のころだった。お互い「いつまでも若くない」という言葉が身に沁みはじめていた時期。それでも妻は、出会ってから今の今まで、私にとって変わらず綺麗なままだ。

    冊子の言葉は、淡々としていた。

    残したいものがあれば、整理してください。
    契約中のサービスは、ご自身の判断で整理してください。

    そして、第三章。

    大切な写真や手紙は、もう一度見返すことをおすすめします。

    「おすすめなんだ。」

    妻が言う。

    「命令じゃないんだな。」

    私は頷いた。

    命令ばかりだと思っていた冊子の中で、その一文だけが少し柔らかかった。アルバムは、押し入れの一番下にあった。力を入れて、引っ張り出す。ズズッ、という音とともに、そのアルバムは引き抜かれた。少しだけ、ほこりっぽい匂いと一緒に。

    枚数は、多くなかった。記念になるような特別な日が、人よりも少なかったせいかもしれない。

    新婚旅行。

    それも、行っていない。日帰り旅行だって、妻とはそう何度も行かなかった。代わりに、近くの海で撮った写真がある。

    妻がコンビニで買った三脚を立てて、タイマーで撮った。背景には防波堤。お互い、風で髪が乱れている。

    「これ。」

    妻が指をさした。

    「このときさ。」
    「うん。」
    「いつか式を挙げたら、ウェルカムボードに使おうって言ったよね。」

    そうだった。確かに言った。

    「子どもがいたら、笑われてたかな。」

    私は何も言えなかった。

    こうしたいねと、未来の話ができたころを思い返す。

    お金ができたら。仕事が落ち着いたら。子どもが生まれて、少し大きくなったら……。

    その「あとで」は、一度も来なかった。

    何度も喧嘩をした。

    口に出せば、関係性が壊れてしまう最後の言葉。それをお互い、喉の奥に貼り付けたまま。

    もう一度やり直そうと手を取り合うと、私は「自分がもっと稼げていたら」と自分を責め、妻は「私が身体が丈夫だったら」と自分を責めた。

    そのたびに、もう少し頑張ってみようと、離れない選択をして生きてきた。

    冊子の最後のページは、拍子抜けするほど短かった。

    最後までお読みいただき、ありがとうございました。
    この冊子を閉じたあと、服用しないという選択も尊重されます。
    その場合は、本冊子を当局へ返却してください。

    私はそのページをしばらく見ていた。

    「……返す?」

    妻が聞いた。答えなかった。窓の外では、夕方のスーパーから帰る人たちが歩いている。がやがやとした笑い声。買い物袋のこすれ合う音が、夕日と一緒に窓から入ってくる。

    テレビでは、天気予報が流れ始めた。手放したくないと妻が言ったから、テレビだけは残してあった。

    「明日、晴れるんだって。」

    妻がそう言った。壁に掛けてあるカレンダーは古いままで、新しいものを買っていない。

    そこで、冊子を閉じた。

    封筒の一番下に、病院の案内が一枚だけ残っていた。予約の日付は、まだ空欄だった。

    テーブルには、飲みかけのお茶がふたつ。湯気は、もう立っていなかった。左手の薬指の指輪だけが、夕日に光っていた。


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