メインコンテンツへスキップ
見出し画像

ペンギンとケーキ屋さん【創作】

    財布野紐ゆるみ

    どういう脈絡だったかは分からない。しかし、とにかくそのカセットテープには、たしかにそう吹き込まれていた。

    「ペンギンになりたい! おじいちゃんと、おばあちゃんと、お寿司……。」

    ノイズがかって再生される、幼い声。

    その主は、幼稚園のころの私。今にして、四半世紀ほども前のこと。

    今日は私の、「幼いころの夢と折り合いをつけた話」をちょっと聞いてほしい。

    * * *

    私は、ペンギンになりたかった。今となってはその理由は定かではないが、当時憧れがあったことは間違いなく記憶にある。

    実際に見たのは、北海道旅行。旭山動物園の、ペンギンの散歩。触るのは禁止だけど、なぜか私に向かって、群れの中から一羽だけ、近づいてきてくれたのを覚えている。

    小学校低学年のときの作文にも、「ペンギンになりたい」という言葉が残されていた。

    思い出すのは、クラスメートの高瀬麗香の言葉だ。

    「ペンギンになりたいだなんて。そんなの無理なのに、ばっかみたい。」

    成績優秀の麗香の言葉は、今考えても正しい。でも、彼女も私を、本気でばかにしているわけではなかった。笑っていたし、つっかかってくることもあったけれど、私たちは友達だった。中学に上がってからの方が、より仲良くなれたかも。

    * * *

    麗香の夢は、ケーキ屋さんだった。そしてそれは、よくある夢見がちな女子のそれではなく、現実的なものだった。

    調理実習では率先して動いていたし、親の影響もあって、家でもお菓子作りを趣味としていた。

    一方そのころ私はといえば、ペンギンはずっと好きだが、なりたいものではなくなっていた。私からすると「小さいころの夢」なんてものはその程度。もちろん叶えば素敵だけれど、叶わなくても微笑ましいし、叶わないから美しいもの。

    私の夢は、バッグのキーホルダーケースの中。家の鍵をぶら下げたペンギンのチャームだけに、その名残を残していた。

    お菓子のレシピ本や調理器具に貴重なお小遣いを割く、麗香のことを横目で見ながら。私の中では、真似できないなと尊敬する気持ちと、うらやましいなと思う気持ちとが、混ざっていた。

    * * *

    高校も大学も別々になったけれど、時折私たちは電話で話したり、たまに会って話をしたりした。ごくごく稀に、仲の良い友人グループで、遊びに行くことも。

    ふたりで話す内容と言えば──。

    アルバイトは今、こんなのやってるよ、とか。
    学校ではこういうことがあって困ったんだよね、とか。
    彼氏ができたけどすぐ別れちゃってさ、とか。

    端から見れば、他愛ない。ふたりにすれば、他愛ある。そんな話をしていた。

    そして。そのころもまだ、麗香は夢を追っていた。

    * * *

    大学を卒業してから、私たちはそれぞれ就職した。麗香は製菓会社。そして私は、特に夢のないまま、事務職だった。夢はなくとも、私には現実がある。

    社会人になると、連絡の頻度は自然と減った。それでも年に何度かは電話をしたし、たまにはお茶もした。けれど、同じ中学時代の友人グループのうち、ひとりは結婚し、ひとりは連絡を取らなくなった。

    ある日、電話口で麗香が言った。

    「ねえ、私さ。今度店、出すことにした。」

    一瞬、言葉が出なかった。

    「すごいね」と言うまでに、少しだけ間があいた気がする。

    場所の話。資金の話。保健所の手続き。

    彼女の言葉は、夢の話ではなかった。もう完全に、現実になった話だった。

    オープンの日、私は仕事帰りにその店に寄った。小さな路面店で、ショーケースには、きれいなケーキが整列していた。

    「いらっしゃいませ。」

    そう言って笑う麗香は、忙しそうで、誇らしそうだった。

    ああ、本当にやっているんだ、と思った。

    私が贈った小さな祝い花も、店の隅に出ていた。他の大きな花と比べると、控えめで、少し見劣りするみたいだった。

    その帰り道、私は自分のバッグの中で、鍵にぶら下がるペンギンのチャームを指で触った。なりたかったものと、なろうとしなかったもの。その違いが、はっきりした気がした。

    この日は、そこまで寒くなかった。でも、心は温度を少し失っていたみたい。

    * * *

    それから数年後、麗香の店はなくなった。

    「辞めたんだ。」

    電話越しの声は、落ち着いていた。理由を聞いても、彼女は多くを語らなかった。

    結婚のこと。親のこと。生活のこと。どれも、それだけ聞けば、よくある話だった。

    「楽しかったよ。やりきった、って思う。けっこう大変でね。原材料の価格も当時と比べると上がっちゃってさ……。」

    そう言う声に、嘘はないように聞こえた。でも、私はその言葉を、少しだけ信じきれなかった。だって辛いときにはいつも、彼女は本当の気持ちを押し込めて、理屈を先に立てる人だったから。

    夢が終わるときって、こんなに静かなものなんだろうか。

    私は何も言えず「そっか」とだけ答えた。このとき、立ち上がる感情はあった気がする。でも、それに名前はつけられなかった。

    * * *

    しばらくして、私の職場で人手が足りなくなった。

    忙しさに追われながら、ふと、麗香の顔が浮かんだ。

    段取りがよくて、手際がよくて、状況を読むのがうまい人。ケーキ屋さんを、曲がりなりにも数年やりきった。経理も、在庫管理も。朝四時に起きる体力だってある。

    私は上司に相談した。

    「知り合いで、いい人がいるんですけど。」

    それ以上のことは言わなかった。推薦でも、救済でもない。ただの情報提供であり、紹介だった。

    面接を受けることになったと聞いたときも、私は特別な感情を持たないようにしていた。決めるのは会社だし、決めるのは彼女だ。

    それから私は、いつもどおり仕事をした。月末の締めに追われ、コピー機の前でふーっとため息をつき、昼休みには自販機のコーヒーを飲んだ。麗香のことは、あまり考えないようにしていた。

    そして一か月後、麗香は私の職場に来た。

    少し緊張した顔で、でも、以前より落ち着いているようにも見えた。制服に着替え、業務を覚え、自然に職場に溶け込んでいった。

    休憩時間、彼女がぽつりと言った。

    「なんかさ。ここ、思ってたより、悪くないね。」

    私はうなずいた。それ以上、何も言わなかった。

    かつて夢を叶えた麗香を、ここに呼んだこと。私にとって、それは一体どういう意味を持つんだろう。そんなことを、考えていたと思う。

    * * *

    麗香は、仕事を覚えるのが早かった。

    ケーキ屋をやっていたころの話は、ほとんどしない。聞かれれば答えるけれど、自分から語ることはなかった。私もいつしか「昔からの友人」から「仕事仲間」のイメージで、彼女と接するようになっていた気がする。

    ある日、資料の不備に私が気づいて、誰にも言わずに訂正しておいたことがあった。そのあと、麗香が私に言った。

    「さっきの、あれさ。助かった。」

    私は一瞬、何のことか本気で分からなかった。「え?」と驚いて聞き返すと、麗香は少し笑った。

    「気づいてないふり、してたでしょ?」

    それ以上、何も言わなかったけれど、彼女はその日から、私のことをよく見るようになった気がする。

    新人の教育係というわけではなかったが、私は、誰かが困っていそうな場面に出くわすと、自然と声をかけていた。

    「そこ、こうしたほうが楽だよ。先輩に教えてもらった小ワザ。」
    「今はそれ、後回しで大丈夫。次のミーティングであげよ。」

    あとあとトラブルになったり、揉めたりすると面倒だし、これらは私の癖であり処世術だった。

    麗香は、そういったやり取りをよく見ていたと、あとから聞いた。

    * * *

    忙しい日が続いたある夕方、休憩室でふたりきりになった。「来期の目標」が紙に書いて貼られている以外、目だったものは何もない部屋だった。

    麗香が、机の上に置いてあった私の鍵を手に取った。

    「懐かしいね。ペンギン。」

    私はうなずいた。

    「うん。昔ね、なりたかったんだ。」
    「知ってるよ。」

    そう言って、彼女はしばらくチャームを揺らしていた。金属が、ちゃりり、と小さな音を立てた。

    「やーっぱり、変よ。鳥なのに、飛べないなんてさ!」

    笑いながら、麗香は言った。なんだか懐かしくて、久しぶりに彼女の前で笑顔になった。

    「でも、鳥なのに、泳げるんだよ?」

    私は、「昔からの友人」としての顔の麗香に、そう言って返した。

    「……ねえ。」

    少し間を置いて、麗香が言った。

    「私、ずっと思ってたんだけど。」

    私はきょとんとして、彼女の顔を見つめていた。

    「あんたって昔からさ。前に出るタイプじゃないのに、気づいたら、いなくなると困る場所にいるよね。」

    それを褒め言葉として受け取っていいのか、分からなかった。だから私は、たぶん首をかしげて「なにそれ」と曖昧に笑った。

    麗香は、それ以上続けなかった。ただ、チャームを元の場所に戻して、鍵を机に置いた。

    「ペンギンってさ。」

    独り言みたいに言う。

    「陸では、ちょっと不器用だけど。水の中だと、すっごくきれいに泳ぐんだよね。」

    私は、何も言えなかった。きりっとした目を持つ彼女の横顔が、ただ、きれいだなと思った。

    その日の帰り、駅までの道で、バッグの中で鍵が鳴った。ペンギンのチャームが、いつものように揺れている。

    私は、ペンギンにはなれたわけじゃない。けれど麗香には、少し違った私が見えているんだろうか。

    後ろで小さく、足音が鳴った。

    「あのう。先輩、ちょっといいですか。」

    私は振り返る。少し前に、何度か声をかけてあげていた後輩だった。

    * * *

    今日は、少し昔の話をした。カセットテープが、出てきたから。理屈も、現実も、何も知らなかったころの私の声。

    私は空も飛べないし、海にも潜らない。それでも、群れの中で、静かに役割を果たしている。派手な夢は叶わなかったし、胸を張って言える成功も、たぶんなかった。

    でも。

    手元にある、手書きのお礼のカードに視線を落とす。あのとき後輩から、焼菓子の紙袋とともに受け取ったものだ。

    そのお菓子は、私の好物だった。後輩には、話してなかったはずだけど。

    テープとカードを、そっと引き出しに戻す。

    ──ペンギンに、私、なれたのかなあ……。

    本気でその夢の価値を信じていた、幼いころの自分。飛ばなくてもいい場所にいる、今の私。

    そのあいだにある距離は、思っていたより、遠くなかったのかもしれない。


    あなたへのおすすめ