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ローズマリーは枯れた【創作】

    財布野紐ゆるみ

    面倒くせえ、と思う。そう思ったまま、もう何人目かもわからない通知を開こうとしている。

    俺はベッドに寝転がったまま、スマホの画面を睨んでいた。寝起きの目には眩しすぎる光の中、無駄に増えた通知の数字が浮かんでいる。もはやスクロールする気にもならない。

    全部、似たようなアイコンに、似たような名前だった。そればかりか、投げかけてくる言葉の温度すら似ているときた。

    その中に、もう表示されない名前がひとつある。

    * * * 

    春の終わりごろだったと思う。

    あいつは最後まで、自分の話しかしなかった。

    「これ、置いてっていい?」

    そう言って、テーブルの上に小さな鉢を置いた。細い葉が密集していて、触ると少しだけ硬い。名前を聞くと、あいつは少し得意げに言った。

    「ローズマリー。ほっといても育つやつ。あんたみたいなのでも、枯らさないでしょ。」

    そのくせ、「水だけはしっかりやってね」と笑った。

    よく言えば、自由気まま。悪く言えば、自分勝手な女だった。だが、考えてみれば、他のアイコンのやつらも、同じようなものだった。

    何日かして、あいつはいなくなった。

    ほんの少しの香りといくつかの消耗品、それからローズマリーの鉢だけを残して。

    別に珍しいことじゃない。もともと、誰のものでもないような素振りで、いつも誰かの愚痴を言っていた女だ。

    不倫相手がどうだとか、その奥さんがどうだとか。俺はくだらない与太話を聞くその合間に、この部屋に入る権利を貸してやっていただけ。倫理観なんてものは、どこをひっくり返しても最初からなかった。

    スマホが震える。俺は画面も見ずに反射みたいに通話ボタンを押していた。

    「もしもし?」
    「ああ。なんだ。」

    少しだけ声のトーンを上げる。相手が安心するくらいに。

    「この間さ、またあいつがひどくてさ──」

    また、だ。いつもそう。

    でも、それを指摘するのは役割じゃない。俺の提案や意見は、どうせ意味がない。

    「そいつはさすがにひどいな。」

    適切な言葉を選ぶ。否定はせず、肯定だけを無難に並べる。積み木を高く積み上げるように。相手の温度が、同調にしたがって上がっていくのがわかる。その変化が、嫌いじゃなかった。

    面倒だとは思う。

    正直、話の内容だってほとんど覚えていない。ただ、相槌と共感を繰り返すだけで──寄り添った振りをしているだけで、相手が勝手に満足してくれる。

    そして最後に、だいたい同じことを言う。 

    「きみって、ほんと優しいよね。」 

    その一言で、今日もようやく解放される。お前の話相手は、なにも聞いちゃいないのに。同じ場所で一緒に積み上げていたわけじゃない。積み木の山は、俺たちの前にそれぞれひと山ずつ積み上がっていた。

    壁に相談してるのと、同じだ。

    「ごめんね、いつもありがと!」

    その軽い声で、通話が終わったあと。

    ──今のは、誰だったかな……。

    名前が思い出せなかった。画面は暗くなり、表示はすでに消えている。ローズマリーとは、別の女だったということはわかった。

    スマホをベッドの上に捨てて、冷蔵庫を開けた。ひとりの部屋では、ちょっとした動作でもやけに大きく響く気がする。

    面倒なこと。面倒なのに、続けていること。やめようと思ったことは、何度もある。通知を消して、ブロックして、全部なかったことにすればいい。

    それだけで、この手の関係は終わる。でも、それをしたあとの静けさを想像すると、少しだけ息が詰まる。

    部屋は変わらず、静かだった。エアコンの音と、自分の呼吸だけがやけに浮いている。たまに、隣の部屋の男のくしゃみが響くと、なぜか妙に安心した。

    * * *

    テーブルの上の鉢に目をやる。

    ローズマリーは、少し色が悪くなっていた。葉の先が、乾くというより、どこか重く沈みこんでいる。

    水は、ちゃんとやっている。あいつに、言われた通り。

    数日前、なんとなく気になって調べた。ローズマリーは、乾いた環境の方がいいらしい。湿気が多いと、根が腐ることがある、と書いてあった。

    そのとき、少しだけ声を出して笑った。人が見れば、芝居がかったように滑稽に映っていたかもしれない。

    根腐れをしたローズマリー。

    「知らなかった」で済ませるには、妙に納得がいったからだ。

    梅雨に入ってから、部屋の空気はずっと重かった。窓を開けても閉めても、湿気と熱気はおさまってくれない。

    思えば、水もやりすぎている気がする。

    条件は、揃っている。 

    スマホは静かなまま、あいつの名前が表示されることは、もうない。

    いなくなって、少しだけ楽になったと思う。時間も増えたし、気も遣わなくていい。

    あいつの置いていった生活用品は捨てたし、香りももう残っていない。それでも、完全に消えたわけじゃない。 

    声の温度とか、言われた言葉とか。そういうものが、どこかに残っている。 

    鉢の土に指を近づける。触らなくてもわかる。明らかに、まだ湿っている。水は、いらない。それくらいは、もう知っている。

    知ったうえで──それでもまた、蛇口をひねる。水は簡単に与えられる。

    与えている間だけは、何かをしている気になれる。あのときも、たぶん同じだった。

    ローズマリーは枯れた。

    それでも、俺は今日も水をやる。


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