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乾杯をもう一度【せりふ三題噺 / アンインストール階段振袖】

    財布野紐ゆるみ

    私には、霊感はない。ただ、直感みたいなものが働くことが、ときどきあった。

    その電話が鳴ったのは、成人式から三日後の午後だった。

    知らない番号だけど、なぜか出なければいけない気がして、私はスマホに指を滑らせた。

    「亜由美さん……ですよね?」

    右耳の向こうから聞こえてきたのは、少し遠慮がちな声だった。ほたるのお母さんだと名乗られて、胸の奥がひとつ、静かに震えた。

    「あの……今、ほたると一緒にいませんか?」

    その言い方が、確認というより願いのようで、私はすぐに「いいえ」とは答えられなかった。

    お母さんは、続けた。

    「あの子、昨日の夜、成人式のときの振袖の写真を送ってくれて。式ではお友だちと一緒だって言っていたから……。」

    写真……という言葉で、三日前の夜が頭に浮かんだ。

    式のあとの飲み会で、誰かがグラスを掲げて、「乾杯!!!」と叫んだころ。その少し前、私は席を外して、ほたるに電話をかけていた。

    『あんた、式、行かなかったの?』

    『うん。でも写真は撮った。』

    画面越しに見えた彼女の顔は、妙に整っていて、静かだった。背後は暗くて、音が反響していた気がする。

    『今、どこ?』

    『家。』

    それ以上、私は聞かなかった。乾杯の声が聞こえて、通話を切った。

    ──あのとき、何かがおかしかった。違和感があったのを、確かに覚えている。

    お母さんの声が、電話口で震える。

    「でもそのあと、何度連絡しても返事がなくて……。亜由美さんなら、何か知っているんじゃないかと思って。」

    「……ちょっと、こっちでもあたってみます。」

    そう答えた自分の声が、思ったよりもくっきりしていて、驚いた。

    電話を切ってから、私はしばらく動けなかった。視線が、宙を泳ぐ。

    「あたってみます」と言ったって、心当たりなんて、ない。共通の友人がいるわけでもない。そもそも当時の友人と、あの子は今もつながっているのだろうか。

    ほたると私だって。大学も別々になって、たまにしか会えなくなって。誰かの愚痴をこぼすことも、社会に対して毒を吐く機会もお互い減っていた。

    あのとき、あの子は私を助けてくれたのに。

    スマホを少し操作して、彼女から私にも送られてきていた、振袖姿の画像を手の中に表示させる。

    よく見ると、背景の影に見覚えがあった。階段の手すり。

    ──高校の裏手、駅から外れた、あの古い連絡階段……。

    私たちは、しんどいとき、よくあそこに行った。
    なんだか、嫌な予感がしていた。

    * * *

    「アンインストールされてなければ、まだあるってことだよ。」

    昔、私が、何もかも嫌になって、ただ座り込んでいた夜。

    親の期待に応えられない自分。世間に何も残せない虚無感。そんなときに、ほたるが言った言葉だった。

    正直、意味のわからない例え話だった。

    「使われてなくても、消されてなければ、終わりじゃない気がする。私のスマホにも、いっぱいあるよ。」

    そのときの私は、半分も理解できなかったと思う。彼女は背中をさすってくれたわけでも、手を取って慰めてくれたわけでもなかった。ただ、顔も合わせないで、私の隣でスマホをいじっていた。

    画面に照らされていた、彼女の横顔を思い出す。

    私が何も喋らなくても、ただそばにいてくれた。自販機で買った飲み物が、冷えてしまうまで、ずっと。

    あの子がいなければ、きっと私は……。

    コートもちゃんと着ないまま、私は家を飛び出した。

    * * *

    はあ、はあ、と大きな声が頭の中で響く。世間的には若くとも、長らく、本気では走っていなかった。

    成人式なんて。でっかいイベントじゃん。あんたの顔も。久々に見れると思ったんだよ。弟さんだって、受験で大事な時期じゃなかったっけ。式に友達と行ったなんて、親御さんに嘘までついて。

    何度となく、スマホから連絡したが、ほたるは出なかった。メッセージの既読もつかない。

    駅前の賑わいを抜けて、再開発された道を外れる。人通りの消えた細い道の先に、あの階段はある。街並みは変わっていたが、その場所は当時のままの姿でそこにあった。

    上るにつれて、街の音が遠ざかっていく。足音だけが、やけに大きく響いていた。

    私は肩で息をして、顔を上げた。

    踊り場に、ほたるはいた。手すりに指をかけて、ただぼんやりと下を見ていた。何かを数えるように。そして、何かを確かめるように。視線の先の街灯は、ずいぶん遠くに見えた。

    長い息を吐く。それは白く流れて、夜に溶けていった。

    「……ほたる。」

    名前を呼ぶと、少し遅れて、彼女は振り返った。そこに、驚いた様子はなかった。

    「亜由美。どうして、来たの。」

    責めるでもなく、安心するでもない声だった。

    「お母さんから、電話あった。」

    それだけ返すと、ほたるは小さく言った。

    「写真、送ったから。」

    「見た。」

    「そう。似合ってたでしょ。」

    沈黙が流れた。冷たい風が、階段を吹き抜ける。「あ、寒くない?」と、彼女は言った。今さらみたいな気遣いだった。少しずつ私の呼吸音は落ち着き、地上の街の音が耳に戻り始めていた。

    ほたるの声を聞いて、ふと、昔の言葉が頭をよぎった。

    ──アンインストールされてなければ、まだある。消されてなければ、終わりじゃない。

    あのときの私は、「終わりじゃない」という言葉を、「終われない」という意味で受け取っていた。でも、今は違う。

    消されていないということは、もう一度起動してもいい、ってことだ。

    私は最後の一段を上って、手を伸ばす。

    「成人祝いの乾杯。あんたとまだ、やってない。」

    ほたるは、その手をすぐには取らなかった。視線を落として、しばらく何かを考えているようだった。

    やがて。ほたるは、手すりから指を離す。そして、ほんの少しだけ、こちらに体重を預けてきた。

    それで、十分だった。

    それは、助けを求める仕草というより、まだ戻れるかを確認する動作のように見えた。

    私たちふたりは、何も言わずに階段を下りはじめた。昔よく立ち寄った、自販機の方へ。あの自販機はたぶん、今も明るい。

    何も話さなくていい。今はただ、私はこの子の隣で。
    あたたかいミルクティーを飲めればいい。



    ※以下の企画に参加させていただきました。


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