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何もしないをする仕事【創作】

    財布野紐ゆるみ

    午前三時。俺たちは何もしていなかった。

    舞台袖に積まれたままのパネルに、半分だけ立てかけられたトラス。そして、どこに使うのかも分からない黒い箱。全部が途中のまま止まっていて、俺たちもその中に紛れて止まっていた。

    今日は、この舞台設営の深夜勤の最終日。はじめに劇場前で集合したときは、謎の秘密結社の集団みたいで若干胸が躍ったものだが、終わりがこんなのでいいのか。

    ゲネプロが長引いているらしい、という話だけが、二時間前から更新されていない唯一の情報。要するに、リハーサルが終わらないので我々の作業ができない。言ってしまえばそういうことだった。

    「これ、帰っていい……とかじゃないよな。」

    誰かが言ったけど、誰も答えなかった。答えを持っている人間は、ここにはいない。俺たちは所詮、派遣で集められた雑用係でしかないのだ。

    深夜勤で、さっきまで身体を動かしていた。とにかく、眠い。眠いまま、ひたすら待たされている。ただ、いつ号令がかかるかわからないのと、寝ていると派遣会社の上役みたいなのがさっき起こしに来たので、「何もしなくていいけど、寝てはいけない」という理不尽な状況だ。

    椅子は足りておらず、俺は裏返したコンテナの上に座っていた。固くて、妙に冷たい。座り直すたびに音が鳴り、姿勢を変えるのも気を遣う。

    眠気がずっと塊のまま頭上に居座っている感覚。波が来るでもなく、ただじわじわと頭の奥に溜まっているのを、唇を噛んで耐えていた。

    「……なんか話でもする?」

    さっきからやたらと時計を見ていた男が言った。結構年上のおじさんで、パフォーマーだと言っていた人だ。たまにこうして派遣で日銭を稼いでいると昨日聞いた。

    「寝たら、怒られそうだし。」
    「なんの話するんすか。」

    反応したのは、おそらくは俺と同じ、学生。顔の長い、細目の男。派遣会社に対して、二重派遣で違法じゃないのかと愚痴をこぼしていた奴だ。

    「……そして、誰に話すんだよ。」

    寝ないように立ったまま仁王立ちしていた男も続いた。そこで少し笑いが起きて、それで会話が始まった。

    誰かが、「言いにくい話でもしようや」と言い出した。このバイト期間中にやった、ちょっと言いにくいこと。バレてないやつ限定で。

    どうせ暇だしな、という空気で、全員がなんとなく乗った。

    最初は軽いやつだった。はじめに話したのはパフォーマーの男だ。

    「仕切ってたあいつ、腹立たんかった? ずっと怒鳴ってたやつ。」
    「ああ、あいつ! なんとかいう芸人に顔の似たやつっすよね。」
    「そうそう。舞台の専門用語で指示出したりしてた。『バミリはヘソ! そっちはオヒサン持って!』とか。意味わかんねーっての。」
    「……で、腹立ったから俺、あいつの帽子、隠した。」
    「え、マジで。」
    「それでか! 昨日終わったあと、なんかめっちゃ探してたぞ。」

    笑いが広がった。それをきっかけに、ちょっとだけ眠気が引いた気がした。あいつは俺も腹が立っていたので、ざまみろと思った。

    次のやつは、ほんの少しだけ悪質だった。話したのは、仁王立ちの男だ。

    「初日の運び込み、結構重いもん持ったろ?」
    「ああ。あれ一番きつかったですよね。」
    「それで、暗かったし、俺、照明バトンが見えてなくて。」

    バトンも、このバイトで知った言葉だった。

    「降りてたの気づかなくて、運んでた物でぶつけちまったんだよな。」
    「え! 大丈夫だったんすか。」
    「……いや、見たら向き変わっちまってた。曲がったのか、ちょっとずれただけなのか、わからなかったが。そのまま忘れてた。」
    「ええ、ダメでしょそれは。」
    「でもそれ、結局誰も気づいてなさそうだったけどな。」
    「まあ作業しづらい場所でしたよね。」

    さっきより笑いは小さかったけど、その場に代わりに妙な一体感があった。聞いていると眠くなるが、自分が言葉を発すると少しだけ目が冴える。

    俺の番が回ってきた。

    「なんかない?」

    パフォーマーに言われて、少し考えたけど、たいしたことは思いつかなかった。真面目にバイトをやっていただけだった。

    「あー……そういえば、二日目ポスター貼るとき、セロテープの向き、横向きに貼るようにって指示を聞いていなくて。」
    「は?」
    「途中まで、縦向きに貼っちゃってて。しまった! って。」

    一瞬の沈黙のあと、どうでもよさそうな笑いが起きた。たしか、重力ではがれにくくするために、縦でなく横にするようにと事前に注意があったのだ。

    「ははは……! どうでもいいわ。そんなの。」
    「気にしすぎだろ、小さいことを!」
    「しょぼいっす。」

    いわゆる、つまらなすぎて逆にウケたパターンだった。自分でもしょぼいと思う。

    でも、あのとき確かに、どうでもいいことだと思いながら、どうでもいいまま済ませていいのかだけは、少し引っかかっていた。

    さっき「どうでもいい」と言われて笑われたことで、濁っていたものをすくい取られた気がした。話せて、よかったかもしれない。

    最後に残っていたやつが、少しだけ間を置いてから口を開いた。細目で愚痴っぽい学生男だ。

    「俺……。」

    なぜか全員、少しだけ姿勢を直した。

    「初日の運び込みのとき、ずっとトイレいたっす。」
    「は?」
    「さぼったわけじゃないっす! マジで腹痛くて、出られんかったっす。」

    一瞬の空白。

    「いやいやいや。」
    「一番しんどい作業じゃねえか、あそこ。」
    「全部やらなかったってこと?」
    「ああ、結果的には……。」

    笑いは起きなかった。あの場では、他にも大勢の派遣連中が集まっていたし、互いの自己紹介をしたわけでもない。気づけないのも、無理はなかった。

    誰かが「それで給料もらってちゃあなあ」と言って、別の誰かが「でも体調不良っていうなら仕方なくないか」と言った。

    擁護と非難が半分ずつ。どっちにも寄りきらないまま、最後に俺がぼそっと言った。

    「人員も時間も、会社が管理できてないんじゃないですか。」

    会話は途切れた。そのまま少しだけ静かになる。

    遠くで、誰かが何かを落とす音がした気がしたけど、それ以上は何も起きず。ただただゆっくりと時間だけが進んでいた。

    やがて、誰かのスマホが鳴って、全員がそっちを見た。

    「派遣会社からだ。」

    それだけで、全員がなんとなく理解した。

    「今日はもう、解散でいいって。」

    安堵したような、がっかりしたような空気がその場に流れた。

    「マジで。」
    「ゲネプロ終わってなくない?」
    「知らね。とりあえず解散らしい。」
    「ひえー、この数時間、何もしなかったっすね。」
    「お前は初日も何もしなかっただろ。」
    「でも、時給出るんだったら、まあ……。」

    立ち上がると、足が少し痺れていた。

    外に出ると、空は少しだけ明るくなりかけていた。朝なのか、まだ夜なのか分からない中途半端な色。

    昔の有名な男性アイドルの舞台だったらしいけど、タイトルも、内容も、最後まで知らないままだ。

    知らないまま、何もしない間に終わっていた。

    ……なんだったんだろう、この仕事は。


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