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揺れても、倒れない【虹色創作部 / すすき】

    財布野紐ゆるみ

    「えっと、『おはな』さん?」

    児童館の受付で、名札を手にしたお母さんが首をかしげた。

    「『おばな』です。」

    もう何度目か分からない訂正。ふっと笑われる。
    悪気がないのは分かるのに、心が少しだけささくれる。
    名前って、自分で選べないのに。

    そんなふうに、名前に振り回されるのは、子どものころからだった。

    ──私は、「尾花」という名字が、昔から嫌いだった。
    珍名字、になるのだろうか。読み方を間違えられるたび、笑われるたび、胸の奥がちくりと痛んだ。

    尾花はすすきの別称だ。同じ秋の七草でも、他の桔梗や撫子ならまだかわいげもあった。すすきじゃ、なんだか華がない。

    すすき、すすき、とからかわれた幼いころの記憶は、いまだに色あせていなかった。

    でも、ずっとこうだったし、もう慣れた。
    私は、変えられるところを、変えていくしかないんだから。

    * * *

    大学の四年目、秋。
    ついこの間までの、うだるような暑さが嘘みたいに。
    ひと足とびに訪れた冷たい風が、私の耳と指先をくすぐるようにつっつく。

    単位は、三年生のときにほとんどとり終えている。所属ゼミの先生は甘く、中身がやや物足りない「卒論もどき」でも無事受け付けてもらえた。

    どうやら私は問題なく、卒業できるらしい。
    うちの大学じゃ、法科大学院に進むのは真面目な法学部生だけだ。

    門の前の街路樹は、ゆっくりと色づいている。黄色い葉っぱが光を透かして、空がやわらかく澄んでいた。校門を抜け、私はいつもの寄り道を選ぶ。

    卒業を間近に控えて、私は今、ふたつの岐路の前に立たされていた。

    ひとつは、就職。
    何十社も受けて、ようやく明日が最終面接。
    すでに内定はひとつあるけれど、志望してきた業界とは少しずれている。
    納得できている、とは言いがたい。

    明日行く会社は、社員も多くない小さな広告制作会社だ。
    新卒採用を始めたのも数年前。けれど、地元でじわじわと業績を伸ばしてきたという。

    そしてもうひとつは、結婚。
    先週、彼からプロポーズを受けた。
    純粋に、嬉しかった。そう、嬉しかったことは間違いない。

    シチュエーションも雰囲気も、不器用な彼なりに気を利かせてくれた。
    彼の汗ばんだ手からは、緊張の鼓動が伝わった。私の目には、自然と涙も浮かんだ。

    けれど、そのときに彼は言った。

    「できれば、さゆりは働かなくていいよ。専業主婦になってくれたら安心だし、早く子どもが欲しいしさ。」

    その言葉が、胸のどこかに引っかかったまま、まだ抜けない。彼だってまだ、社会に出て一年目なのに。

    わずかにしかない貯金。社会経験の乏しい焦り。他にも、うまく言えない何かが、私の背中を冷たくなぞる。それらと「彼と一緒にいる幸せ」とを、天秤にかけてうまく測れるほど、私の心は成熟していないらしい。

    ポケットの中で、ぎゅっと手を握る。
    その手には、何もつかめていないのに。

    彼氏の名字は、何の変哲もないありふれたものだ。たぶん、結婚すれば私はその名字になる。ようやく「尾花」でなくなる機会が与えられたんだ。

    自室の「大事なものボックス」に入れては出して、何度も開けた指輪の箱。嬉しいのに、きゅっと胸が詰まる、そんな矛盾。

    通学途中の河川敷には、銀色の尾が風に吹かれてそよいでいた。
    ──すすきだった。風の音が似合っているのが、妙に憎らしい。

    公園へ続く道を歩くと、足元で銀杏がつぶれている。
    あの独特の匂いが、鼻にうるさくまとわりつく。変わりゆく季節の中で、自分だけがまだ立ち止まっているような気がした。

    * * *

    翌日の面接。

    リクルートスーツは着慣れたが、面接の重い緊張感にはいつまでたっても慣れない。社長と人事担当が向かいに座る。

    他には誰もいない。この部屋に今、応募者は私ひとりだ。志望動機や希望部署、予想しうる質問にはこれまでの面接でさんざん答えてきた。

    しかし今日、予想していた質問はひとつも来ず、空気が張りつめる。その場しのぎで、我ながらよく対応できたと思う。

    そして突然、社長が言った。

    「では、あなたを植物に例えると、何ですか?」

    心臓が跳ねた。これも、準備していた答えなんてない。
    からからの喉で、唾をひとつ飲み込む音が聞こえる。

    けれど、私の意に反して、勝手に口が動いた。

    「……すすきです。」

    社長の眉が、わずかに動く。興味の色が、次の言葉を促しているようだった。

    「理由は──。」

    今までずっと、嫌いだったはずの名前が、口をついて出た。
    私はもう、逃げられなかった。

    「一見弱そうに見えても、根は深く、しなやかに風を受け止めます。
    折れずに、立ち続ける力があります。
    ……揺れながら、ちゃんとそこにいる。そんな植物だから。」

    土の中の根っこのように──これまで見えなかったものが、ずっとそこにあったのだと気づく。

    長い静寂が流れた。

    心臓の音だけが、やけに大きい。
    けれど、不思議と怖くはなかった。

    * * *

    帰り道、夕暮れの風が頬を撫でている。
    ビルの隙間から光がこぼれ、道端の細い草が揺れていた。
    すすきではない。けれど、揺れ方がよく似ていた。

    スマホを手に取る。
    ひとつ深い呼吸をすると、冷たい空気が喉を抜けた。

    プロポーズの返事はまだ、していない。

    画面には彼の名前。
    答えは、元から決まっていたんだと思う。

    ──もう少し、尾花さゆりでいる。

    心の中で声に出してみると、胸の奥が少しだけ軽くなった。震える指先で、通話ボタンを押す。

    ワンコール。

    風が吹いて、光が揺れる。夕暮れが静かに闇へ変わっていく。

    揺れても、倒れない。揺れながら、折れずに立ってやる。

    すすきなんて、と思っていた「尾花」という自分の名前。
    今はほんの一歩、心の中で「好き」に近づいた気がする。

    ふと、気づけば──。
    空には、薄く金色を描く円弧があった。

    まるで胸の中に灯る、静かな決意を確かめるように。
    中秋の名月は、そっと私を照らしていた。


    ※以下の企画に参加させていただきました。


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