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愛おしい棘【創作】

    財布野紐ゆるみ

    仕事帰り、取引先との付き合いで入った華やかな店で、彼女とは出会った。

    これまで、こういった夜の店には触れてこなかった。結婚していた頃は同僚からの飲みの誘いも断ることが多かったし、もともと、金を使う趣味は避けて、堅実に生きてきたほうだ。

    しかし俺は、指名した女性「みさき」の笑顔と気さくな会話で心を撃ち抜かれた。

    確かに「しょせん夜の店で働く女」と軽く見ていた、その目線のギャップがあったかもしれない。みさきは、俺が職場で接するどの女性よりも、美しく知性があり、そして上品に感じた。

    「客あしらいの営業スマイルだ」と頭では分かっていたが、胸にぽっかりあいた穴を埋められたような感覚に陥る。

    家族のいる同僚や、年下の上司へ感じる劣等感を一瞬忘れてしまう。そんな心地よさがあった。

    * * *

    俺は翌週も一人で店に行き、みさきを指名した。

    「また来てくれたんだ! 嬉しい!」と喜ばれ、財布の紐が緩む。ほんの話した程度で、たくさんいるであろう客の中で自分のことを覚えておいてもらえたことに少し感動を覚える。

    彼女は、俺が仕事の疲れや孤独を語ると、親身になって耳を傾けてくれた。
    「頑張ってるね」と認め、褒め、なぐさめてくれる。彼女だけが、俺のことを理解してくれる。

    全て「営業トーク」だ。しかし、頭で分かっていても心は癒やされてゆく。

    普段、会社の飲み会で部下に奢ることなど一度もないのに、みさきのシャンパンには会計の桁が違っても惜しいとも思わなかった。

    内心「俺はいいカモだ」と自嘲もしていた。
    しかし、騙されることが救いになる日がこようとは、この人生で今までついぞ考えたこともなかった。

    必然、嫌なことがあった日や話したい嬉しいことがあった日、そして給料日に、俺の足は自然と店に向いてしまっていた。

    * * *

    数か月もするとクレジットカードの請求が膨らみ、家計は逼迫していた。
    少しくらいなら、と貯金を崩し、自分をごまかして店に通っていた。

    どうせ、再婚などはもう期待していない。
    自分ひとりさえ生きていければ...…。

    コンビニのカップ麺が入った袋を横にずらし、椅子に腰かけて預金通帳を開く。

    残高がページをまたいでみるみる減っていくのを見て、自己嫌悪に陥る。必要なのは、自己嫌悪でなく自己管理。そんなことは、わかっていた。

    別れた妻や子どもの存在を思い出し、胸が痛む。

    ──あの子のランドセルにだって、こんなに金はかけてやらなかったな...…。

    親の介護費用。自分の将来への不安。会社の健康診断の結果では、肝臓が要精密検査ということだった。今の職場で、定年まで働けるのか...…。

    店にしばらく顔を出さない期間もあった。しかし、みさきから「この前の話、元気出た?」「次は一緒にあのお酒飲みたいな」などのメッセージが届くと、どうしても理性が行方をくらましてしまう。

    スマホを握る手に力が入っていた。
    画面の角が、手のひらに食い込むほどに。

    俺は、この現実とどう向き合っていけばよいのかを考えていた。
    台所の隅で、使っていない包丁が蛍光灯の光を反射している。
    その冷たい光が、やけにまぶしかった。

    * * *

    あるとき、みさきから「誕生日イベント」の招待を受けた。

    自分には、今や帰りを待つ家族も仲の良い親友もいない。彼女が今、自分の支えになっていることは間違いない。

    店に行くだけで、お酒を頼むだけで、嬉しそうに笑顔を向けてくれる彼女のことだ。記念日に、忘れられない思い出をあげれば、より自分に気持ちを向けてもらえるのではないか。

    経済的に限界と分かりつつも、休みを使ってプレゼントを買いに行った。
    かなり無理をしたと思う。喜んでくれると思いたいが……。

    カードによる分割払いを店員へ告げた際の、ちょっとした居心地の悪さが、俺の胸に少しの影を落としていた。

    * * *

    イベント当日、みさきは店に来た俺に喜び、感謝してくれる。強張った心が、ほろりと解けていくような感覚が俺を包む。

    「お、お誕生日、おめでとう。」

    俺は、祝いの言葉とともに、プレゼントの入った袋を差し出した。

    中身は彼女の好きなブランドの新作のバッグだ。
    気が利かないとよく言われる俺だが、「あれが欲しい」と雑談の間にみさきが言ったことを覚えていた。そんな自分を誇らしくも思っていた。

    そして、いつもの笑顔を向けてくれる彼女。
    しかし、「ありがとう」と事務的なお礼を言うやいなや、さっと袋を奪うように受け取ると、奥に引っ込んでしまった。

    他にも、みさきの誕生日のために来たとおぼしき客がちらほら見受けられた。いろんな客を相手しなければならない。自分はその中のひとりなのだから仕方がない……。

    花束や照明、高価な酒に彩られる、きらびやかな店内。裏腹に、俺の心は所在なさげに暗い場所へと沈みこんでいった。

    今日のみさきは、自分とは軽く話す程度で、別の客にはより豪華で濃い対応をしているように見える。

    「自分は特別ではない」という、冷たい現実。

    少し酒を飲み、ふらつく足取りで店を後にする。そして俺は、彼女が店外に姿を現すのを、ただひたすら待っていた。

    小雨がちらつき始めた頃、彼女が店の裏手から出てくるのが見えた。

    別の客と、腕を絡めて歩いている。

    自分よりも若く、羽振りのよさそうな、洒落た格好の男だった。
    彼女がその客に向かって「バッグありがとう」と甘えるように礼を言っていた。

    彼女が手にしているのは、俺が買ってやったのとブランドもカラーも全く同じ、寸分違わぬ形容のバッグ。

    あの男にも、同じものを買ってもらっていたのか。俺の贈り物は、単なるノルマのひとつに過ぎなかったのか。
    お前が喜ぶ顔を見たくて買った物は、間もなく質屋の棚にでも並ぶのか。

    そして、次に会ったときには、「あなたに買ってもらったものよ」と嘘をつくのか...…。

    冷たい夜風に当たりながら、虚しさと悲しさが入り混じる。

    それでも。

    彼女から間を置いて届く「今日はありがとう、あんまり時間がとれなくてごめんね」というメッセージ。

    それが胸を刺し、涙が出る。

    こんなもの。こんなに心のこもらない、機械的な文字の羅列が。メッセージ履歴の削除ボタンを、どうしても押すことができない。

    俺を苦しめる棘が、どうしてこんなにも愛おしいんだろう...…。

    雨が少し勢いを増してきた。
    夜の街のネオンが、ぼんやりと瞬いて見える。

    懐に隠し持っていた包丁が地面に落ち、金属音があたりに響く。

    静寂が夜を包んでも、その乾いた音は俺の頭にこびりつき、いつまでも鳴り続けていた。


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