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あの魔女が、倒されてから【創作】

    財布野紐ゆるみ

    悪い魔女は倒された。

    それだけを聞けば、村にとっては喜ばしい出来事のはずだった。

    森の奥に棲み、迷い込んだ若い娘をさらう──そんな噂は、昔からあった。行方不明者が出る森と魔女の話は、この村に住んでいれば誰もが一度は聞いたことがあった。

    だから、勇者が村に訪れて魔女を討ったと聞いたとき。誰もがほっと胸を撫で下ろした。村の者はその勇者に感謝し、謝礼を支払い、その武勇を讃えたという。

    ……それで終わりの、はずだった。

    * * *

    しかし、勇者一行が残していった報告が、物議を醸した。

    「……あの薬、あの女が売ってたんだってよ。」

    井戸端で、誰かがぽつりと言った。村に、たまに来ていた薬売りの女。顔を隠すように布を巻いて、愛想よく笑う女だった。

    それは、小さな瓶だった。透明な液体で、香りはほとんどない。飲んだ翌日、肌の調子が違う──そんな話で知られていた。

    高価だった。だから、頻繁に買えるものではなかった。それでも、祭りの前や、逢瀬の前に、思い切って手に取る者は少なくなかった。

    「……あれ、魔女だったって。」

    静まり返る。誰も、すぐには言葉を返せなかった。

    「中身……」

    一度そこで、言葉が切られる。

    「あの子らだったって……。」

    風が、止まったように感じた。

    * * *

    その日の夕方、ひとりの女が広場で泣き崩れた。昨年に失踪した娘の、母親だった。

    「うちの子だったんでしょ……? ねえ……誰が飲んだの……?」

    その声は、誰に向けられたものでもないはずだったのに、そこにいた全員の胸に突き刺さった。

    視線が、自然と逸れていく。視点が回転する。誰も答えない。答えられない。

    「……やめなよ。」

    輪の中から、ひとりが声を上げた。

    「あの人たちは悪くないでしょう。知らなかったんだから。」

    擁護するように言ったのは、村でも顔立ちの整った女だった。年の割に肌の張りがあり、髪も艶やかだと評判だった。

    「魔女が悪いのよ。騙したあいつが全部悪い。……買った人たちを『悪』かのように責めるのは、おかしいでしょう。」

    その言葉は、正しかった。少なくとも、理屈の上では。

    「それに、例えば……そう、誰かが盗んできたものだって知らずに買ったとして。あとから盗品でした、ってなったら! それで、買った人が泥棒になるわけじゃないでしょう?」

    眉をひそめて抵抗する女の言葉に、少しだけ、ほっとしたような空気が流れかけた。

    「そうでしょ? それと一緒じゃない……!」

    早口だった。言い切る声は、少し強すぎた。

    ──果たして、一緒だろうか。

    擁護していた女の顔に、冷や汗がひとつ。誰も口に出さないまま、その違和感だけが残る。

    「……じゃあさ。」

    低い声が、返った。娘を失った母親ではない。別の女だった。腕を組み、地面を睨みつけるように立っている。

    「知らなかったら、何してもいいわけ? あの女が来る前後で、人、いなくなってんだよ。何か変だって、買わない人もいた。」
    「これは、そういう話じゃ──。」

    言葉が詰まる。

    「飲み薬の味にしちゃおかしい、って買うのをやめた人もいたよ。」

    逃げ場が少しずつ、塞がれていく。

    「知らなかったら、誰の肉でも食っていいっての!?」

    空気が凍る。誰も、すぐには答えられなかった。

    「……それに、あんた。」

    別の誰かが、ぽつりと言った。

    「一度は買ってたろう。それ。」

    その問いに、女は答えず、下を向いた。

    答えられなかった。一瞬、視線が揺れたのを、何人かは見ていた。

    * * *

    その夜。

    ひとりで井戸に向かう影があった。誰もいないことを確かめてから、水面を覗き込む。月明かりに照らされた、自分の顔が映っている。広場で、擁護していた女だった。

    ──やっぱり少し……綺麗になっている。

    あの薬を飲んだあとから、ずっとそうだった。ほんの少しだけ。けれど確かに、前よりも。

    ふと、唾を飲み込む。その瞬間、思い出した。甘くも苦くもない、不思議な味。

    一度しか飲んでいない。高くて、もう買えなかったから。

    それでも。

    「……。」

    指先で、自分の頬に触れる。やわらかい。あのときよりも、まだ。

    ──出ていかない。

    体の中に入ったものは、戻らない。吐き出すには、遅すぎる。

    知らなかった。本当に、知らなかったのだ。人間だったなんて。村の仲間だったなんて。

    けれど。

    「……。」

    女は顔を上げた。井戸の水面が、静かに揺れる。誰かに見られているような気がして、振り返った。

    誰もいない。

    それでも、背中にまとわりつくような、ぬめりとした感触だけが残る。昼間の言葉が、頭の中で繰り返される。

    ──知らなかったんだから、悪くない。

    そう、思っているはずなのに。なぜか、もう一度同じことを言えと言われたら──少しだけ、言葉に詰まる気がした。

    ばしゃ。

    女は、小石を落とし、井戸の水面を揺らした。写された顔が、歪む。

    私は、間違っていない。

    ばしゃ。

    もうひとつ。自分の顔が、波紋で見えなくなる。

    ばしゃ。ばしゃ。

    その夜は、水音だけがしばらく続いた。

    * * *

    翌朝。広場では、昨日と同じ顔ぶれが集まっていた。誰も、あの話題を口にしない。

    けれど。誰もが、誰の顔も、少しだけ長く見ていた。

    ──あの人は、飲んだことがあるのか。

    そんな目で。

    人が減らなくなった代わりに、その村は、静かになった。

    あの魔女が、倒されてから。


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