メインコンテンツへスキップ
見出し画像

夕焼けと、見えない仕事【創作】

    財布野紐ゆるみ

    夕方の駅前は、もう混雑と呼ぶほどではなかったが、油断すると危ない時間帯だった。仕事帰りの大人と、部活帰りの学生と、買い物袋を下げた高齢者が、それぞれ違う速度で歩いている。

    反射ベストの男性は、横断歩道の手前に立っていた。腕章の色は少し褪せていて、何年もここに立っていることが分かる。

    彼は信号を見るよりも先に、人の顔を見る。運転手の注意の向き、そして歩行者の車への意識を測るように。

    地下鉄の入口の駐輪場では、自転車整理のおじさんが黙々とハンドルの向きを揃えていた。倒れそうな一台があれば、先にそれを直す。通路をふさぐ位置にあれば、そっと移動させる。彼の仕事は、誰かが困る前に、誰かを支えるものだった。

    私が立っていたのは、駅の反対側の歩道だ。いつも遠目で、ふたりの様子を眺めていた。

    私は毎日、ここを通る。

    「事故はゼロ」という標語の書かれた看板。季節の切り替わりより少し早く、ホットに切り変わる自動販売機。

    いつも通りの遅い昼食を終え、近くのコンビニ横で一服をしたあと、缶コーヒーを買おうと自販機に小銭を入れるころ。ふたりがちょうど、視界に入る。

    そのとき、横断歩道の手前で、ひとりの高齢の女性が立ち止まった。信号は青だったが、彼女は渡らない。帽子をかぶり、背筋も伸びている。けれど足先は、少し妙な方を向いていたようだ。

    反射ベストの男性が、それに気づく。腕を上げて、車の流れを止めるが、女性を急かすようなことはしない。

    「あの、大丈夫ですか。」

    男性より先に、私が近づいて声をかけると、女性は一瞬きょとんとした顔をしてから、笑った。

    「ええ、ええ。大丈夫。ちょっと暑くてね……。」

    声ははっきりしている。けれど、首元が赤かった。反射ベストの男性も車を一旦通して、左方からこちらへ、様子をうかがいに近づいてきた。

    夕方近いが、アスファルトの熱はまだ残っている。熱気による体調不良かもしれない。

    次に、右方から見にきた自転車整理のおじさんが、入口脇の日陰を指した。

    「おーい。こっち、座られますか。」

    ベンチというほどでもない、木陰の段差だった。女性は少し迷ってから、腰を下ろした。

    自転車整理のおじさんが差し出したペットボトルの水は、ぬるかった。それでも女性は何口か飲み、深く息をついた。

    「ありがとう。」

    ぽつりと、そう言った。

    「私も昔はね、踏切のところで、旗を振ってたの。子どもが通る時間だけ。」

    反射ベストの男性が、少しだけ笑った。

    「ああ……。じゃあ、同業者ですね。」

    女性は微笑み、照れたようにうなずいた。

    「誰にも覚えてもらえない仕事よ。何も起きなかったら、それで終わりで。」

    私は、その言葉を胸の奥で反芻していた。見えないところで起きる不具合を探す。自分の仕事のことを思い出していた。

    今朝のことだ。ネットワークがつながらない、という上司の一言。原因切り分けのために床を這いずりまわり、結局、原因は上司が勝手につないだ某国製のアダプタだった。

    それでいて、トラブルのない日は、まるで、必要ないかのように扱われる。

    「いやあ、私も一緒ですよ。」

    自転車整理のおじさんが言った。

    「何もないと、報告書に書くことがありません。そんな仕事です。」

    思わず、口をはさんでいた。

    「私は知ってますよ。交通整理の方も、自転車整理のおじさんも。この時間、いつもここから見えてますから。」

    三人に、はっとしたような顔で見られて、私はとっさに視線をそらした。

    しばらくして、女性は立ち上がる。足取りは、さっきよりもしっかりしていた。

    「騒ぎにならなくて、よかったわ。」

    そう言って、地下鉄の階段をゆっくり降りていった。夕焼けが、ビルの隙間でその色を落としていく。

    車はさっきと同じように動き出し、人の流れも元通りだ。

    反射ベストの男性は、また定位置へ。自転車整理のおじさんは、自転車を一台、きれいに並べ直した。

    今日、救急車は来なかった。ニュースにもならない。標語どおり、「事故はゼロ」だ。

    私は職場への道を歩き出しながら思う。

    あの女性が倒れなかったこと。それを知っているのは、たぶんこの夕方を共有した数人だけだ。

    あの夕焼けは、何事もなかったように。今日も街を冷ましていった。


    あなたへのおすすめ