メインコンテンツへスキップ
見出し画像

ATMと一万円札【創作】

    財布野紐ゆるみ

    冷房が効いているとはいえ、時折入ってくる外気と客の多さで、店内には熱がこもっていた。

    「あんなもんにまだ金使ってんの。」

    友人の言葉は、はじめ何の話かわからなかった。

    「あんなもん?」
    「ATMだよ、ATM。」

    友人は枝豆をつまみながら笑った。

    「預けた自分の金を引き出すのに手数料とられるんだぜ。意味わかんねえよ。」
    「ああ。」

    合点がいった。さっき、この居酒屋に来る前に金を下ろしてきた、と俺が話したからか。友人は昔から、自分が納得のいかないものへの支払いを惜しむきらいがある。誰だって、多かれ少なかれ持つ感情だとは思うが。

    「ま、平日の日中は無料だから、俺は平日に下ろしてるよ。」
    「その、『特別に無料にしてやってる感』が嫌なんだよ。」

    ジョッキを持つ手を止め、友人がこちらを見る。じろりとした目つきはいかにも悪人っぽいが、小心者で悪い奴じゃないことは昔からよく知っていた。

    「……土日とか朝深夜に、無駄に金をふんだくってるだけの大名商売だよ。俺は絶対に、ATMで金を下ろさねえ。」

    そこまでだろうか。俺は炭酸水を一口飲んだ。かららん、という氷の音が耳に届き、冷気が喉の奥に染みわたる。

    「俺は月一回、ATMで下ろしてるなあ。」
    「現金にそこまでこだわる必要なくないか?」
    「まあ、相性かな。」
    「相性?」
    「使った気がしないんだよな、クレカって。」

    クレジットカードは持っている。毎月の料金の引き落としや、インターネット上の決済に登録し、利用していた。ただし限度額は最低額のままで、積極的に使っているとは言えなかった。

    「ポイントだって貯まるのに。」
    「それでも、なんかね。」

    友人は肩をすくめた。

    「損してるぞ。」
    「否定はしない。」

    毎月のことだ。給料日が過ぎた最初の平日。昼休憩か仕事帰りに銀行へ寄る。必要と思しき生活費だけを引き出して、財布へしまう。そのとき、ATMの画面に表示される残高をちらっと見る。

    六百九十八万。先月より四万増えていた。来月は七百万に届くかもしれない。

    その数字を見るのが好きだった。

    もちろん、急な出費が読めなくて、手数料を支払って下ろすことだってある。そうすれば、その月はどこか負けたような気になる、というだけ。機械が悪いわけじゃない。

    誰かに怒られるわけじゃない。褒められるわけでもない。通知だって来ないし、ただ機械的に数字が画面に浮かぶだけだ。でも、それだけが俺に「今月もちゃんと暮らしたな」と教えてくれる。

    そんな、通信簿のようなもの。

    だからATMは嫌いじゃなかった。

    平日に行けばいい。必要な額を考えて下ろせばいい。失敗したら、手数料を支払うだけ。俺の生活には、そのくらいの手間のほうがちょうどよかった。

    「でもよお。」

    友人がジョッキを空けた。

    「それでなくても、人間生きてるだけで住民税だの社会保険だの取られるんだぜ。」
    「ああ。だからATMの手数料くらい、いいんじゃないのか。」
    「それとこれとは別だろ。」
    「どう違うんだ?」

    少し考えてから、友人は答えた。

    「納得できるかどうか、かな。」
    「税金は納得してんの?」
    「いや、してない。仕方ないから払ってるだけだ。」

    俺は吹き出した。

    「そういえばお前、レンタルビデオ屋でも似たようなこと言ってたな。『借りるだけで消費してないのに、なんで消費税要るんだ』って。」
    「誰だって、納得できないものには払いたくないだろ。」
    「めんどくせえ性格だな。」
    「否定はしない。」

    さっきの俺の言葉をそのまま返す友人。わはは、と少し大きな声で笑う彼につられて、素面の俺まで笑ってしまった。

    友人は、酒も煙草も好きだった。休日はバイクを飛ばして釣りへ行き、予定のない休みは負けるとわかっていてもパチンコ屋へ入った。

    一方俺は、酒も煙草もやらない。ただ、ブラックコーヒーだけは毎日飲んだし、何か月かに一度は身体のメンテナンスのためマッサージに通った。

    どちらが正しいとも思わない。使いたいところに使えばいい。ただふたりとも、何に払うかを自分で決めたいだけだった。

    店員が、伝票を持ってきた。実のある話をしていた覚えもないのに、ラストオーダーの時間はいつの間にか過ぎていた。

    「お会計、こちらになります。」

    友人が自分のカードを差し出してこっちを見る。

    「まとめて払うでいいよな。お前はポイントに興味ないし。」
    「もちろん、頼む。俺が飲み食いした分しか返さねーけど。」

    お決まりの流れだった。俺は酒を飲まない分、友人が多めに支払う。カード払いのポイントは、友人の好きにすればいい。納得いく支払いで飲めるからこそ、このサシ飲みは長年続いている。

    しかしここで、店員が申し訳なさそうに頭を下げた。

    「申し訳ありません……。本日、カードリーダーの不具合で現金のみとなっております。」
    「え、マジか。」

    友人は、財布を開いた。

    横から覗くと、千円札が一枚、二枚。支払いを任せるには心許ない枚数だった。小銭入れにも、数えるほどしかない。

    「げ、やっべ。」

    俺は財布から一万円札を取り出した。

    「じゃあ、今日は俺がまとめて払っとくから。」
    「悪い。あとで送る。」

    店を出ると、夜風が少しだけ涼しかった。駅までの道も、この時間は人通りがまばらだ。

    友人がスマホを取り出す。

    「いくらだった?」
    「そっちの支払いは、たぶん二千八百くらいかな。」

    レシートを友人に手渡して、言った。レシートは、取っておかずに捨てる方だった。

    「計算速いな。現金派だからか? じゃ、三千送るわ。」
    「や、二千八百でいいって。」

    さっきの話を思い出したように、俺は続けた。

    「友達だから、手数料はなしでいい。」

    友人は一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。

    「お前、それATMにも言ってやれよ。あいつはお前と仲良くても金とるんだろうがよ。」
    「あれは大名商売だからな。俺はそこまでじゃないってだけだよ。」

    今度はふたりして笑った。別にお互い、酔っ払ってるわけでもないのに。目の前の友人だって、別に俺に払うならちょっとの手数料くらいは惜しくないのだろう。でも俺は、こいつからは余計な金はもらいたくなかった。

    「じゃあな」と駅前の交差点で一言。次の約束はないままだが、どうせまた同じ店で飲む。互いに上げた右手がそう語っていた。

    ポケットの財布からは、一万円札が一枚なくなった。その代わりに増えた小銭が、歩くたびに小さく鳴っている。

    駅のコンビニ前を通ると、ATMの明かりがガラス越しに見えた。今日も誰かが、画面を覗き込んで何かをしている。

    残高は見なくてもいい。予定よりも現金を消費したが、今日減った金額くらいは覚えている。

    スマホがぴろりん、と短く鳴った。「二千八百円、受け取りました」。おもちゃのような機械音と、ATMの画面よりも味気ない表記の数字。

    それでも、今日はその数字だけで十分だった。


    あなたへのおすすめ