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声のいらないスケッチ【創作】

    財布野紐ゆるみ

    ──ああ、この世界は退屈でつまらない。

    そんなことを思いながら今日もぶらぶらと辺りを徘徊する。
    昼間っから、見てくれのよくない、いい年をした大人が虚空を見つめてうろついているとあっては、通報されかねない。

    仕事も人間関係も空虚に感じだしたのは、前の職を離れたころからか。一生懸命生きて、あくせく働いて、何になる。

    周りを見れば、上司にごまをすって出世を狙うやつ。要領よくサボっていかにも成果を上げたふりをするやつ。そんな環境で、俺は誰より実直にやっていたという自負がある。

    それでも。親父の過去の前科を知ったときの、俺を見る連中の目が、俺に対する評価のすべてだ。そこに疑いの余地はない。

    「いっそ死んでしまいたい」と「苦しむのはいやだ」の狭間で、俺の気持ちはシーソーのように揺れていた。

    さほど金がかからず時間をつぶせる場所として、街のはずれの方の植物園にやってきた。

    今の気持ちとは裏腹に、この日はいやになるほど天気がよかった。

    * * *

    蜂蜜の乗ったソフトクリームを買い、ベンチに腰掛ける。暑い中徒歩で歩いてきたことで火照った身体を、優しく冷ましてくれる。

    店員におすすめされてつい買ってしまったが、値段は決して優しくはない。アルバイトの収入のみで、緩やかに目減りしていく預金通帳を思うと、小さな買い物でも胃が痛い。

    ちょうど、円形の花壇を挟んだ反対側のベンチで、ひとりでスケッチをしている女性を見かける。

    ──何を描いているんだろう。

    何故か気になった。花壇の方を向いて手を動かしているということは、目の前の花を描いているのだろうか。

    人が描いているものを覗き見るなど趣味が悪いが、他の景色や花を見ながら、後ろを通る際にちらと目をやる。

    筆ではなく、画材はスケッチブックと色鉛筆のようだ。色を複数重ねて、細かく表現された陰影が非常に美しかった。

    「...…お上手ですね。」

    声をかけるというのでもなく、ぽろっと感想が口からこぼれ出た。
    女性は俺の声に気づき、驚いたように振り向く。そして、にっこりと笑顔で頭を下げた。

    しかし、何も言葉は発さなかった。

    俺はこのとき、ちょっとした違和感を覚えていた。

    * * *

    全く別の日、同じ植物園、同じベンチで彼女を見かけた。前に会ったときとスカートの色が違ったが、同じように絵を描いていた。

    俺は、前回来たときに一周して、開催されるイベント情報も施設の売り物も、もちろん植物も観賞し終えていた。

    植物園など、季節を変えて来なければさして景色は変わり映えしない。以前のように彼女に声をかけてみることにした。

    「こんにちは。ここにはよく来られるんですか。」

    以前のようにくるりと振り返り、彼女はこくりとうなずく。年は自分と同じか、少し下くらいだろうか。

    しかしやはり、返事はない。しばらく様子を見ていると、彼女は困ったようにスマホをポチポチとさわり始め、画面を見せてくれた。

    ──私、声が出せません。

    陽の光で少し画面は見えづらかったが、確かにそう書かれていた。

    * * *

    その後、話を聞いてみると──というか、彼女の打った文字を読んでみると──彼女は「ここでよくひとりで絵を描いている」「植物園が好き」「ホルベインのアーチストという色鉛筆を使っている」というところまでは分かった。

    絵を描いている彼女に対し、邪魔にならない程度に会話をしようとすると、必然俺がほとんど喋ることになる。

    周りからすれば少しおかしな光景だっただろう。しつこくナンパしているように思われていなければいいが。

    今日の彼女の絵には、女の人と小さい子供が手を繋ぎ園内を歩いているところが描かれていた。植物園の客がモデルだろうか。

    個人的な話は、お互いしない。相手が言葉で反応しないやりとりは、面倒ではあったが気持ちがどこか楽だった。

    日をあらためて、また植物園に通おうと思っていた。

    * * *

    この日は園内の違う場所で彼女を見つける。
    向こうが先にこちらに気づいて、手を振ってくれた。

    今日、俺はほとんどしゃべらずに彼女の描く絵をぼんやり眺めていた。

    俺の生活はややひりついていた。

    生きるためかと仕方なく、企業の面接を何度か受けたが、どこの面接官の反応も芳しくなかった。長くつとめたバイト先も穴をあけたことでいづらくなり、自主的に退職の意志を伝えたところだった。

    彼女がちらとこちらを見る。あまり俺がしゃべらないことを気にしてくれているようだった。

    「生きる意味が分からなくて。少し、疲れてしまいました。」

    気持ちをぽつりぽつりと話しはじめる。彼女は悲しげな表情を浮かべるが、何も言わず、ただ手を動かし続けていた。

    「……仕事でも、人間関係でもうまくいかなくて。すみません。こんな話。」

    回答が返ってこない独白でも、ほんの少しだけ気持ちは落ち着いた。

    彼女のスケッチの中には、いつも微笑ましい親子らしき影が描かれていた。見ているだけで、愛情が感じられるあたたかい絵。

    彼女はきっと、愛を受けて育ち、家族仲もよい環境に身を置くことができているんだろうなと、さみしく思う反面、なんだか嬉しくもあった。

    しかし、当然踏み込んだ話はもちかけなかった。

    旦那さんがいて、おそらくお子さんもいるのだろう。

    「ちょっと、うろついてきます。」

    俺は、近くの売店で小さな動物の子供用のキーホルダーを見つけて買ってきた。彼女の隣に座り、「お子さん、喜びますよ」と差し出す。

    変な話を聞かせてしまったお詫び、くらいの気持ちで。

    彼女ははっとして色鉛筆を動かす手を止めた。
    少しして、スマホに文字を打つ。

    ──子どもは、今はいません。

    「今は、どこに……?」と口にすると、彼女は空を指さした。

    俺は、自分の無神経さを恥じ、何も言えずに隣で黙って座っていた。

    抱えている喪失や不条理がいくら重くとも、他人の目には映ることはない。そんなことに、今さら気がついた。

    * * *

    また、別の日。
    俺は少し顔を合わせづらかったが、彼女は今日も笑顔だった。

    はじめて会ったときから季節は変わり始め、このころは園内も秋の雰囲気を醸し出していた。風は涼し気に流れており、ソフトクリームを販売していた店は今では焼き芋を売っている。

    植物園のイベント一覧のスケジュールも一新されていた。

    「今描かれている絵、とても良いと思います。……もちろん、これまでのも良かったですけど、今回のは、特別に。」

    彼女はいつもの、にこりとした笑顔を向けてくれる。

    空と、園内の緑の色使い。絶妙な色の乗せ方。秋らしいものが一切描かれていないのに見ただけで感じる、夏の去った後の空気感。色鉛筆で、こんなにも細かく色を重ねて塗ることができるのかと感心していた。

    彼女のスケッチを褒めたのは、嘘偽りない俺の本音だった。

    彼女に過去、何があったのかは今も分からない。

    けれど、今回の絵にも描かれている「笑顔の親子」の温かい雰囲気が、俺の心をとらえて離してくれない。そこには、嫉妬や憧れに似た感情もあったかもしれない。

    「そういえば、向こうの建物で園内スケッチを期間内、来場者が自由に展示できるようになっているみたいですよ。飾ったら、みんな見てくれるんじゃないですか。」

    どちらかと言えば、子ども向けの企画だった気もするが、せっかくだから他の人にもこの絵を見てもらいたいと思った。

    ──そうですね。完成したら、考えてみます。

    彼女はスマホでそう答えてくれた。

    * * *

    その後、彼女の姿をその植物園で見かけることはなかった。

    たまたまタイミングが合わなかっただけなのか、もうこの園では描くことに飽きてしまったのか。

    あるいは自分が嫌われてしまったのか……を気にするのは自意識過剰か。

    俺もそろそろ、ここからどこかへ踏み出さなきゃならないってことかな。

    そんなことを考えながら園内をうろつく。この日は風が強く、いつもより格段と寒く感じた。

    寒さをしのげる、展示スペースの施設にやってきていた。
    企画の絵が並んでいるのを見て、彼女に絵の展示を勧めたことを思い出した。

    どれどれと、左上から順に見て回る。やはり子供の描いた絵が多い。ほとんどいたずら書きのような絵もあれば、幼いながら一生懸命描いただろう作品もあった。

    スペースの右下、一番端っこにひっそりとその絵は貼られていた。

    何度も見た、彼女のあたたかい作風。色鉛筆で仕上げられたきめ細やかな質感。一枚の中に、彼女らしい世界が広がっていた。

    やはりいいな、と思って見入っていると、ふと気づく。

    園内の色とりどりの花と植物に囲まれるのは、あの時見た笑顔の親子。
    少し離れたところに、男が立っているところが描かれている。

    それは、自分だった。他の人が見ても分からないだろう。
    でも、俺には分かった。

    彼女の作った「世界」には、俺が存在していた。
    ここにいてもいいよ。と耳元でささやいてくれている、そんな気がした。

    作品タイトルは「ありがとう」。

    かわいくて小さい丸文字で、下の方にそう書かれていた。

    胸が詰まり、ぽつりとつぶやく。

    「俺は……生きていても、いいんでしょうか。」

    静かにうなずいた彼女の顔が浮かんだ。

    俺は年甲斐もなく、嗚咽をこぼす。必死でこらえても、むせぶ声を抑えることができなかった。

    しばらくして、無理やり心を落ち着かせてから、施設を出る。
    空を見上げて、深く息を吸い込んだ。

    世界は相変わらずそのままで変わらない。けれど。
    自分の胸の奥に、かすかなぬくもりが寄りそってくれているのを感じていた。

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