メインコンテンツへスキップ
見出し画像

白い履歴【創作】

    財布野紐ゆるみ

    三十を過ぎるまで、俺はクレジットカードを持ったことがなかった。

    別に主義やこだわりがあったわけではない。もともと余計なものをあまり持たない性分だし、それまで現金で困ったことがなかったのだ。

    ネット通販もほとんど使わない。コンビニで支払えるものはコンビニで払ったし、振込が必要なら銀行へ行った。給料の振込先口座も、自分で作ったものではない。学生のころ、親が用意してくれた口座をそのまま使っていた。

    大学も、卒業後の仕事先も、実家から通える範囲にあった。生まれてこの方、引っ越しする必要もなかった。

    必要ないものはいらないだろう、という生き方。それで、何も問題はなかった。だから、自分にはクレジットカードが必要ないと思っていた。

    * * *

    ふとしたきっかけが訪れる。あれは、スマホを買い替えたときだった。契約手続きをしていたときに、店員が言った。

    「クレジットカードを登録すると、お得になりますよ。」

    ああ、そういうものなのかと思った。

    どうせ作るなら、今作っておくか。そんな軽い気持ちで、申込書を書いた。

    職業も年収も、正直に書いた。嘘を書く理由はない。同じ職場で勤務を継続していたし、固い仕事の部類だと思う。

    数日後、一通のメールが届いた。

    ──審査の結果、ご希望に添えませんでした。

    そんな文面だった。眉をひそめる。

    収入はある。借金もない。税金も払っている。携帯料金だって滞納したことがない……。なのに、なぜ落ちるのだろう。

    何かの間違いか、入力に不備があったのかもしれないと思った。不思議だったが、特に困りもしなかったので、このときは放置した。

    実際、それまで三十年以上困らずに生きてきたのだ。カードがなくても、人生は回る。

    * * *

    少し困り始めたのは、その後恋人ができてからだった。

    「ホテル予約しよう。」

    遠出をするとき、いつもどちらかが予約していた。サイト予約をこちらで行い、カードにポイントがつくからと、支払いの方は彼女がふたり分まとめて行ってくれることが多かった。

    たいていその後で、払ってくれた金額を彼女に返していた。病院や一部支払いで現金がなくて困ることがあるというキャッシュレス派の彼女は、俺が現金で返すことを喜んでくれていた。

    そしてある日。「今日は先に支払っておいてくれる?」と言われて、了承し予約サイトを開いた。

    支払い方法の欄を見て、閉じた。

    クレジットカード。またクレジットカード。どこもクレジットカード。

    「こちらのカードの種類の方がポイントが多くつく」という文言の意味は理解できる。しかしそれは、カード払いを前提とした世界の言葉だった。

    後払いができるところもあったが、手数料がかかったり、手続きが面倒だったりした。

    「えっ、カード持ってないの?」

    彼女は驚いていた。彼女の生活は、俺とは違ってカード払いを中心に回っていた。

    「ああ、持ってないんだ。」
    「一枚も?」

    その言葉にぎょっとした。複数枚持っているのが当たり前。そんなニュアンスが声の向こうに透けていた。デビットカードもないの、と聞かれ、そのカードがなんなのか、わからなかったので教えてもらった。

    「そんな人いるんだ!」

    笑いながら言われた。馬鹿にしている感じではなかった。むしろ珍しい動物でも見つけたような表情だった。

    「でも、なんかわかる気もする。」
    「何が?」
    「お酒飲まないし、煙草吸わないし、ギャンブルもしないし。」

    そう言って笑った。

    確かにそうだった。俺は別に、キャッシュレス決済を趣味嗜好と思っていたわけではなかったが。

    必要になったことがなかった、それだけだ。

    だが、今回のことで必要だと感じた以上、作ったほうがいい。ポイントもつくらしいし。そのくらいの認識だった。

    実家へ帰ったとき、俺は母にその話をした。

    「カード、作れないんだよね。」
    「あら。」
    「審査落ちて。」

    母は、少し考えてから財布を開いた。

    「私も今はだいぶ整理したのよ。」

    そう言って、テーブルにカードを並べ始めた。

    一枚。二枚。三枚……。

    「これだけしかないけど。」

    並んだカードは、計七枚になった。

    「いっぱいあるじゃん。」
    「そう?」

    母は首をかしげた。その顔を見て、カードを持たない自分が少数派なのだと思い知らされた。

    * * *

    自室のPCで調べていると、奇妙な言葉に行き着いた。

    「スーパーホワイト」。

    借金歴も、延滞歴もない人。あるいは信用情報に何も記録がない人。

    白紙、もとい真っ白。

    白いことは良いことだと思っていた。悪いことをしない。借金をしない。支払いを滞らせない。そういうことの積み重ねが「信用」だと思っていた。

    しかし、どうやら違うらしい。

    社会は履歴を見る。何をしたかを見る。何もないことは、良いことでも悪いことでもない。

    ただ、何も証明しない。

    昔、何かあって履歴が消えた人と、最初から何もない人は、外から見れば似ている。そういうことらしかった。

    それから何社か申し込んだ。

    落ちた。また落ちた。

    理由は教えてもらえない。審査に落ちた、という結果だけが届く。

    だんだん意地になってきた。別に絶対必要なわけではない。だが、ここまで落ちると気になる。自分はそんなに信用のない人間なのだろうか。

    最後に、一番作りやすいと言われているカードへ申し込んだ。これで駄目なら、諦めよう。

    そう思っていた。

    * * *

    職場での休憩時間、食堂から戻る間にその電話を受けた。スマホを耳に当てると、相手はカード会社の者だと名乗った。

    「在籍確認をしたいのですが。」

    担当者は丁寧だった。本当に申請した内容通りで勤務をしているかが確認したいらしい。

    「代表番号だと、私にはつながらないんですが……。」

    そう説明した。スマホに直接「職場に電話をしてもいいか」の事前連絡を入れてくるのも変だと思ったし、自分のせいで本部連中に余計な手間をかけさせるのは違うと思った。

    「部署の番号なら、平日かけてもらえれば私が出ます。」

    相手の息づかいに、あまりよくない感触を受けた俺は、こう付け加えた。

    「一応、職場のウェブサイトにも私の名前が載っていて。」

    担当者はこの言葉で了承したようだった。

    けれど、電話を切ったあとで考えた。自分が電話に出たら何なのだろう。

    電話番号を自分で入力して、その電話が鳴って、その電話を俺が取る。そうなったとして、何が証明されるのだろう。

    さらに説明したことも思い出した。

    名前が載っているページがあるのは、本当だ。だが、そのページを更新しているのは自分だった。

    職務の一環で、WordPressを触っている。自分で編集したページに自分の名前が載っている。それを在籍の証拠として提示する。

    どこか、滑稽だった。

    信用とは、一体何なのだろう。そんなことを考えた。休憩時間も終わりに近づき、気づけば俺は自分の部署にたどり着いていた。

    数週間後。

    郵便受けに一通の封筒が入っていた。差出人を見て、思わず立ち止まる。

    部屋へ戻って封を切る。中にはクレジットカードが入っていた。光沢のある、一枚のプラスチック。それを指先で挟んで眺める。

    こんなふうに何かを手に取って嬉しかったのは、子供のころのトレーディングカード以来かもしれない。

    その後は不思議だった。

    別のカードを申し込むと、あっさり通った。そのときは、数分で審査完了の通知が来たのを覚えている。

    恋人に報告すると、「よかったね」と喜んでくれていた。しかしその声に、どこか残念そうな色を含んでいるような気もした。

    昨日と今日で、自分は何も変わっていない。仕事も同じ。収入も同じ。性格も同じ。それなのに、結果だけが違った。

    財布の中には、二枚のカードが入っていた。一枚目を手に入れるまで半年近くかかった。それなのに、二枚目は十分もかからなかった。

    財布からカードを取り出す。光を反射する薄い板。

    信用とは何なのかなんて、考えてみても、よくわからない。

    ただひとつわかるのは、白紙であることと、信用されることは、どうやら別の話らしい、ということだった。


    あなたへのおすすめ